人間は変われる。平昌五輪スピードスケート女子1500メートル銀、1000メートル銅メダルを得た高木美帆(23=日体大助手)を見て、そう感じた。

女子1000メートルで3位の高木美は日の丸を掲げる(撮影・山崎安昭)
女子1000メートルで3位の高木美は日の丸を掲げる(撮影・山崎安昭)

 スピードスケート担当として、14年ソチ五輪前から取材してきた。10年バンクーバー五輪に、最年少の中学生で出場した天才。「武器はマイペース。他人と戦うより対自分」と話すなど、クールな印象を持った。勝利への執着心を見せずに勝つ。それはそれで格好いいし、高木なりの美学なのだなと思っていた。

 ところが13年12月のソチ五輪選考会で落選。高木はその後、当時のことを、こう振り返った。「ちょっと手を抜いてもできる自分が格好いいと。クールぶるところを見せたり、一生懸命やる選手を否定したり。熱くなれなかった」。そしてソチ五輪選考会前に「スケートに懸ける思いで(他選手に)負けている」ことを痛感し、ある意味、落選を受け止める自分がいたという。

 幼少期から秀でてきたスケートで負けるべくして負けた。挫折というより情けなさでいっぱいとなった。変わらなきゃいけない。人生観は180度転換した。ソチ五輪落選から3年。16年11月W杯長野大会で、久しぶりに高木を取材する機会があった。1000メートルで同走の小平奈緒に最後に差されて0秒14差で敗北。レース後の高木には、どこか俯瞰(ふかん)したような、かつての姿はなかった。「(小平)奈緒さんに負けたことが悔しい。負け方が悔しい。次は勝てるようにしたい。闘志はメラメラしています」と気迫をあふれさせた。

 レース後の熱い言葉は、高木の家族をも驚かせた。母美佐子さん(55)からは「“負けて悔しい”と言えるようになったんだ」と言われた。「昔から勝負意欲がわいてこないことが悩みというか、勝ちたいと思えないところがあった」と高木。ソチ五輪落選を経て、トップアスリートに備わっているべきの闘争心がやっと芽生えた。そして高木は変わり、平昌五輪のメダルに結び付いた。

2013年7月22日付紙面
2013年7月22日付紙面

 ソチ五輪前、日刊スポーツ紙上で、同じ94年生まれでフィギュアスケート男子シングル連覇の羽生結弦と対談した(13年7月22日付)。ソチ五輪本番では自らが代表から落選する一方で、羽生は世界の頂点に立った。「競技に対する姿勢がすごい。レジェンド。対談したことが恥ずかしい」。その後は気兼ねするばかりだったが、平昌五輪ではメダリストの仲間入りを果たした。クールな装いを捨て、体面を気にせず、しゃにむに競技に打ち込んだ天才。同学年のレジェンドに近づいたことは間違いない。【田口潤】

 ◆田口潤 72年、東京都生まれ。94年に入社して取材記者一筋。五輪、相撲、サッカー、ボクシング、プロレス、ゴルフ担当を経て現在は五輪担当。