12月14日、京都府総体の選手権女子を制し、サービスでポーズを決める本田真凜(撮影・松本航)
12月14日、京都府総体の選手権女子を制し、サービスでポーズを決める本田真凜(撮影・松本航)

フィギュアスケート女子の本田真凜(18=JAL)に笑顔が戻ってきた。

12月22日に閉幕した全日本選手権(東京・国立代々木競技場)。19日のショートプログラム(SP)を終えると、場内の大歓声を受けてほほえんだ。回転不足こそあったが、ジャンプ3本全てを着氷。3つのスピンでも最高のレベル4が記された。何より、プログラム全体の完成度が光った。

「『あとは気持ちの問題』というぐらい、たくさん練習をした。たくさんのお客さんの前で、自分らしい演技ができて、とてもうれしいです」

全日本選手権の約1週間前、京都で行われていた競技会へ足を運んだ。控室で「写真、1枚いいですか?」と尋ねると、ダブルピースで応じてくれたのが懐かしく思えた。私が担当になったジュニア2年目の時点で、そんな気遣いができる選手だった。その明るい笑顔を見て、聞きたいけれど、なかなか聞けなかったことを質問しようと思った。

「今、オリンピック(五輪)シーズンを振り返ってみて、どんな思いになりますか?」

17~18年シーズン、本田は過去最大の注目を集めていた。「世界ジュニア女王がシニア転向」-。18年2月にピョンチャン(平昌)五輪が控え、2枠の代表争いを焦点に月日が流れていく。グランプリ(GP)シリーズデビュー戦だった、10月のスケートカナダは5位。11月の中国杯でも表彰台に乗れず、五輪代表最終選考会の全日本選手権で7位に沈んだ。注目された反動は大きかった。

あの時、何を思ったのか-。意を決してぶつけた質問に、本田は嫌がることなく答えてくれた。

「オリンピックシーズンは自分の実力と、周りの期待で自分の中に差を感じていました。でも、どうすることもできない。五輪に行けなかったら、みんなが離れていくことは分かっていました。その時、正直に言うと『良かった。やっとこれで解放される』って思いました」

五輪が終わった18年春、米国へ渡った。世界王者ネーサン・チェン(米国)を指導するラファエル・アルトゥニアン・コーチに師事し、親やきょうだいと離れて1人の時間が増えた。コーチの変更でジャンプは一からの見直しとなり、結果はなかなか出なかった。

「同じグループで滑るような選手と比べて『ここで滑れる選手じゃないのに…』と考えてしまう。練習はしてきても、試合になると『早く終わりたい』と思ってしまう。どうしてもそういう風に考えてしまった」

迎えた今秋。拠点は米国に置きながら、国内の地方競技会にあえて出場した。自らの名前が書かれたファン手作りのバナーを見て、気持ちが変化し始めたという。

「『そういう方々に喜んでもらえるように滑りたい』と思うようになりました。今思えば、ジュニアの頃は『優勝できれば何でもいいや』ってなっていた。『自分がこうなりたい』というのが、見えてきました」

7位、15位と悔しい思いをした過去2年と比べ、全日本選手権に臨む気持ちが変わっていた。

迎えた21日のフリー。直前の選手の演技を見ることなく、リンクサイドで黙々と体を温め、出番と同時に両拳を握った。本番は3回転ルッツの転倒などで、理想の得点は出なかった。総合8位にとどまったが「反省点以上に得たものの方が大きい」と前向きだった。

五輪シーズンの思いを聞いた京都のリンクで、本田はこうも言っていた。

「自分の良さだったり、結果で注目してもらえるように頑張ります!」

その時を楽しみに待ちたいと思う。【松本航】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。武庫荘総合高、大体大ではラグビー部に所属。13年10月に日刊スポーツ大阪本社へ入社し、プロ野球阪神担当。15年11月から西日本の五輪競技やラグビーを担当し、平昌五輪ではフィギュアスケートとショートトラックを中心に取材。

12月19日、全日本選手権女子SPの演技をする本田(撮影・垰建太)
12月19日、全日本選手権女子SPの演技をする本田(撮影・垰建太)