7行のコメントには、その人柄がにじんでいた。

2022年1月14日。都内で行われた日本スケート連盟理事会の取材に出向くと、資料を手渡された。

この日、18年平昌オリンピック(五輪)4位入賞の宮原知子(23=木下グループ)が4大陸選手権(18~23日、エストニア・タリン)を体調不良のため欠場し、北京五輪も補欠から外れるという内容が承認された。

資料に記されたコメントの冒頭には、こうあった。

「このたび、年明けより体調を崩しましたことから、4大陸選手権への万全の準備が難しいと考え、出場を辞退させて頂くことと致しました」

さらに感謝の思い、決意の言葉がつづられていた。

「私をいつも応援してくださる皆様、本当にありがとうございます。これからも日々精進してまいります。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます」

五輪代表に選出されたか、否か-。

その視点に縛られなければ、宮原のスケートは今季、間違いなく、上昇曲線を描いた。裏を返せば今から10カ月前の2021年3月、心理面はどん底だった。

スウェーデン・ストックホルムで行われた世界選手権。宮原は紀平梨花(トヨタ自動車)、坂本花織(シスメックス)とともに、北京五輪の枠取りに臨んだ。だが、結果は合計172・30点の19位。自己ベスト219・71点から47・41点も下回り「話にならないぐらいの内容」と自ら言った。

その直後、思わぬ人から手を差し伸べられた。

フリー後に向かった更衣室。すれ違ったのは、1歳上のエリザベータ・トゥクタミシェワだった。抱き締め、そっとささやかれた。

「ただただ、前向きに頑張っていれば、いいことがあるから」-

10代の目覚ましい活躍が続くロシアにおいて、20代中盤でも輝きを放つ選手だった。思わず目が潤んだ。

トゥクタミシェワが世界選手権優勝を飾った2015年。2位は宮原だった。長年、浮き沈みを経験しながら、共に世界の第一線を歩んできた。のちに更衣室前の出来事を振り返った。

「リーザちゃん(トゥクタミシェワ)も1回下がって、また今年(2021年)の世界選手権で2位まで上がってきた。そのことを知っているので、自分はズタズタだったんですが、本当にパワーをもらいました。リーザちゃんは自分の道が見えていて、自分をしっかりと持っている。『私も頑張ろう』と思いました」

そうして迎えた北京五輪シーズンは、小さな自信を1つずつ積み上げた。2021年8月、滋賀で行われた地方競技会「げんさんサマーカップ」。合計196・28点と得点は過去の自分に及ばないが、フリーは手応えを感じる内容だった。

「のびのびと試合で演技をするっていう部分では、ちょっと何かが見えたような、つかめたような感じがしました」

シーズン序盤には作った笑顔でなく、すがすがしい表情を見ることができた。

「気持ちの面で、今までで一番充実してできている実感があります。本番でも『心から楽しんで滑れる試合を積み重ねたい』というのが、一番の目標です。それができたら『よしっ!』と思えると思います」

年の瀬の全日本選手権は73・76点の4位発進。フリーは6位にとどまり、総合5位の結果が残った。3枠の北京五輪代表には選出されず、今回の体調不良で補欠からも名前が消えた。

それでも-。資料に記された「これからも日々精進してまいります」の言葉には“らしさ”がにじんだ。

以前、過去と比較して、このように分析していた。

「『前はもっと何も考えずにできたのにな』って感じたこともあるし、裏返せば『それだけ経験したことがあって、今の自分がいるのかな』とも感じます」

現在の心境は想像することしかできない。それでも、1つだけ確かなことがある。宮原がまた心から楽しんで滑る姿を、待っている人たちがいる。【松本航】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)


◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。武庫荘総合高、大体大ではラグビー部に所属。13年10月に日刊スポーツ大阪本社へ入社し、プロ野球阪神担当。15年11月からは五輪競技やラグビーを中心に取材。18年ピョンチャン(平昌)五輪ではフィギュアスケートとショートトラックを担当。19年はラグビーW杯日本大会、21年の東京五輪は札幌開催だったマラソンや競歩などを取材。

宮原知子(2021年12月23日撮影)
宮原知子(2021年12月23日撮影)