8月の全米プロ選手権最終日。午前8時55分という朝の早いスタートだった谷原秀人(39=国際スポーツ振興協会)は、日も傾き始めたコース駐車場で人を待っていた。5位となって日本男子初のメジャー制覇に惜しくも届かなかった松山英樹(25)。10分ほど前、報道陣の前で悔し涙を流していた松山は、東北福祉大の先輩を見つけると、何とも言えない表情になった。「だめッス」。努めて明るく振る舞う後輩の右手を谷原は黙って握り、ねぎらった。

 今季、松山と最も多くの時間を共有したプロゴルファーは間違いなく谷原だろう。そろって出場したメジャー4大会では2人で練習ラウンドを回るのが恒例。5月の米ツアー、チューリッヒ・クラシックではタッグを組んで戦った。7月の欧州ツアー、アイルランド・オープンでは連日食事をともにし、全英オープン前週にはテニスのウィンブルドンも並んで観戦した。海外を主戦場とする大変さは、当人にしか分からない。もともと仲は良かったが、この1年で日本を飛び出し、異国で奮闘する“戦友”同士として絆が深まったように感じる。

 谷原にとって、今季は本当に怒濤(どとう)のシーズンだった。4月のマスターズに出るため、年明けからハワイ、シンガポール、ミャンマー、オーストラリア、メキシコ、米本土と転戦。世界ランクポイントを稼ぎ、07年以来のオーガスタ切符をつかんだ後は欧州に目を向けた。終盤にはイタリアから中1週で中国の試合に出た後、トルコ、南アフリカ、ドバイ、欧州新シーズン初戦の香港と過酷な連戦も敢行。超高額賞金がかかる「ロレックスシリーズ」で優勝争いに絡む試合もあり、ハイレベルなポイントレースを27位で終えた。

 40歳を目前に控え(欧州転戦中の11月16日に39歳の誕生日を迎えた)、体にムチを打って未知の国やコースを巡る。特に今季は初めての舞台ばかりで月曜からコースチェックが必須。ゆっくり寝られるのは国境をまたいで移動する日曜の飛行機くらい、という日々が続いた。シーズン途中からは並行してスイング改造にも着手。「体に染み付いたものがあるから、もう1回、小学校か中学校くらいに戻らないと(目指すスイングは)できないのかな、とか思っちゃいますよね」とこぼしつつ、努力を惜しまなかった。香港から休む間もなく参戦した日本シリーズJT杯。その原動力を問われた谷原は、少し困ったような顔をして言った。

 「何ですかね…常にうまくなりたいというのがある。1ミリでも、1センチでも、自分が思い描く動きができるように。ただ、それだけなんですよ。それが成功しようが失敗しようが、どうでもいいんです。自己満足。ゴルフって、そうじゃないですか。自分がそれでいいと思えば、いいだけの話。ただ、もっとできるんだったら、やった方がいいんじゃないかなというのが自分の中である。みんな、そうなんじゃないですか。どこでやりたいか、というだけの話なんで。(自分の場合は海外で)やれる場所があるわけですから」。

 もっといい球を打てるかもしれないスイング理論がある。自分を高めてくれる可能性にあふれたフィールドが目の前に広がっている。回復力の落ちてきた肉体を酷使し、苦労を伴うことであっても、それに手を伸ばさない方が、谷原にとっておかしなことだった。当たり前のことをやっている-。自分を誇るそぶりは、一切なかった。

 ネドバンク・チャレンジを戦った南アフリカ、サンシティーのゲーリー・プレーヤーCCについて話した時のこと。いつもひょうひょうとしている男が、珍しく声のトーンを上げた。「普通にコースの外をゾウさんが歩いてる。なかなか見ないですからね。あれは感動したなあ…。青木さんとも話したんですよ。『オレも30年前に南アフリカにいったんだ。その時は、まだアパルトヘイトだったなあ』って」。あの青木功(75)と南アフリカのゴルフ場トークで盛り上がれる日本人選手なんて、そうはいない。それだけでも貴重な経験だったかもしれない。

 18年は、いよいよ欧州ツアーがメインとなる。「見えるところが見えたというか。意外と平均を取ってみたら『こんなもんで上にいけるんだ』みたいなところがある。それは別にそんな大きな差じゃなくて、小さな差。もう少しうまくスコアをまとめられたら、全然、上で戦えるんじゃないかというのは見えてきた」。継続して参戦してきたからこそ実感できる手応えもある。

 全米プロの時、絢香夫人(36)と話す機会があった。移動便の手配などはマネジャーに任せていることもあり「たまに(谷原が)どの国にいるのか分からなくなることがあるんです」と笑った後で続けた。「もう若くはないし、好きなことを悔いなくやってほしい」。家族の思いにも後押しされ、再び世界を飛び回る。【亀山泰宏】