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新弥のDAYS'

2007年05月30日更新

エスカレーターの美徳!?

<「右側を歩いて上る」習慣を褒められた>

 友人からこんな話を聞いた。

 ニュージーランドからの家族連れの旅行者に質問されたそうだ。「東京ではエスカレーターの右側を空けて、急ぐ人を通している。実に現実的で、しかも(ニューヨークのような)トラブルを見掛けない。規則で決まっているのか」。

 いいえ。残念ながら、公には「エスカレーターを歩いて上るのは止めましょう」とされているし、「右側を“そこどけ”とばかりに強引に上るのはよくないこと」とされている、と答えたという。

 答えながら、思わず笑ったそうだ。

 急がない人が、どちら側にいても支障ない場合、どうせなら右側を空けることにしよう、急ぐときはお互い様だから、右が空いていたら右側を上ろう。現実にはいつの間にか、こういう風習ができあがっている。

 これが学校だったら、校長と級長が声を限りと「右側を駆け上るのは止めましょう」と叫び、悪童や先生までもが、遅刻しまいと右側を駆け上る。そんな漫画になるかもしれないーー。

 友人はいたずらっぽく笑っていた。

 ここまで来るのに、何年かかかったのだが、確かに誰かがそうしようと言ったわけではない。むしろ「そうしてはいけない」「不愉快だ」「危険だ」といった反対論が一時は強かった。今もある。

 中には「あまりにも勝手で、自己中心的な慣習だ。1度、腹が立ったので右側で居座ってみたが、白い目で見られて、苦しかった。右を上ってどれだけの差があるのか。皆が整然と、歩かずに静止してエスカレーターを利用すべきだ。日本はまだまだ文明国ではない」といった発言もあった。

 文明国ではないかも知れないが、「右は急ぐ人用。止まるなら左に寄れ」などと、この習慣を強要するような野蛮な人は最近はほとんど見掛けない。強要したら間違いなく非文明国だろうが、現状は互いの利便を考えながら、それぞれが「自由の中で選択している」ようにも見える。

 ニュージーランド人には褒められたが、この習慣をとがめる人は多い。その意見にも十分耳を傾けるべきだろう。それだけに、この習慣がいい習慣だと思う人は、決して他人にこれを強要せず、右で止まっている人がいたら、潔く諦めて、黙って自分も止まることだ。高速道路ではないのだから(高速道路の走り方とこの習慣は無関係ではないのだろうが)パッシングすることも、「遅いのになぜどかない」などと思うことすらも、自粛することだ。

 自粛。

 自転車の問題も、同じように自然解決されることを望みたい。狭い日本の道路事情の中で「自転車専用の走行帯を設置し、そこ以外を走ってはならないなどということになれば、自転車の良さが半減するような気がする。幼児を乗せた母親や、車が使えない年配者たちが、かなり回り道をすることも多くなるだろう。一方で対歩行者との(歩行者の)安全、対車との(自転車の)安全は向上するだろう。ただし、ゼロにはならない。

 今、一番簡単な対応策は「自転車は、本来は歩道を走ってはならない(だからベルで「そこどけ」と歩行者に道を譲ることを強要するようなことをしてはならない)」という基本的なルールを、もっと社会が徹底して認識しあうことだ。

 同時に「道路は誰が優先であっても、基本的には共同で使うもの」という当たり前の原則も、互いに認識し合うことだ。自転車は車道を走るのが本来だが、当然左側部分の左端を走るわけで、何も真ん中を走っていいわけでもないし、車が自転車を邪魔にしていいわけでもない。バスが「さまざまなやり方」で自転車を歩道に追い上げようとするなどは、もってのほかだ。

 ただ、こうしたことが熟成するには何年もの経過が必要だ。

 相身互い、という意識からの「自分たちの自主的な習慣」ができあがらなければ、いくら規則を押し付けても、根本解決にはならない。ましてや全国の「道」からすればごくわずかな部分だけ、2車線の車道を1車線にして自転車専用道を造ることだけですべてが解決するとは思えない。

 なお、この問題に関しては、日本の自転車と社会について、常にサイクリストの側から活動、発言してこられた土屋朋子さんが2月に、ご自分のHP(http://www3.famille.ne.jp/~spoke/)でコラムを掲載されている。ご参考にされたい。

 http://www3.famille.ne.jp/~spoke/offbox/2.14.07.html 

 形の上での強制的な解決も1つの方法だが、その前に、社会全体の認識という心の解決法を、もう少し試みてほしいと思う。

 同じ事が、スポーツのさまざまな規約や規制、申し合わせ事項について、言えるのではないだろうか。あるいは、最近聞かれなくなった「スポーツマン精神」とか「アマチュアリズム」といった根源部分の実践についても、言えるのではないだろうか。

 フェアプレーというと、何か形になったいかにもフェアな「プレー」のことをイメージしがちだが、大切なのは形になろうがなるまいが、常にスポーツに関わる者が持とうとするべき「フェアプレーの精神」の方だ。

 それは誰からも強要される物でもなければ、強制されるものでもない。自分が邪念やごう慢さ、いきすぎた「勝ちたい」気持ちを自粛し、いつでも「潔く」利益を諦め得る態度であり、不利を受け入れる精神だ。

 勝つために努力することが競技のすべてではないだろう。けれど百歩譲ってそうだとしたら、だからこそ、その根源精神がスポーツの重要な土台になるのだ。

 ただ、これが社会の共通概念となるには、はやり長い経過が必要になる。時には時流、が大きくこれを後退させる。

 「現代スポーツ評論」(中村敏雄編=創文企画刊 電話 03・3295・4466 1600円=http://www.soubun-kikaku.co.jp/index.html)最新16号(5月21日発売)では「フェアプレー・スピリットは死んだ」という特集を組んでいる。さまざまな人がさまざまな立場から論じていて、興味深い。



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プロフィル
後藤新弥(ごとう・しんや) 日刊スポーツ編集委員、61歳。ICU卒。記者時代は海外スポーツなどを担当。CS放送・朝日ニュースターでは「日刊ワイド・後藤新弥のスポーツ・online」(土曜深夜1時5分から1時間。日曜日の朝7時5分から再放送)なども。
 本紙連載コラム「DAYS’」でミズノ・スポーツライター賞受賞。趣味はシー・カヤック、100メートル走など。なお、次ページにプロフィル詳細を掲載しました。
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