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新弥のDAYS'

2008年02月11日更新

植村直己さんの青竹

<「自分」ではなく足跡で語った冒険者>

 2月の白い雪を見る度に、目に浮かぶ景色があります。

 果てしない雪原に、青竹が1本、ぽーんと立っているのです。時折強風が吹き付け、あたりが白1色の異次元世界になりますが、それでも青竹は揺るぐことなく、誇り高く、そこに立ち続けているのです。

 植村直己氏が、アラスカのマッキンリーの核心部にいよいよ上り始めるという時、そこに突き刺していった青竹です。

 クレバスの危険が待ち受けていた麓の雪原部を抜け、これからが険しい上りになるあたりです。

 いつ戻ってくるか分からない、しかし自分は必ずここに戻ってくるのだという確信のもとに、その目印として、突き刺していったものに違いありません。

 1984年2月。マッキンリーの厳冬期単独初登頂という壮大な冒険に挑んだ植村さんですが、その青竹を自分で回収する日はとうとうきませんでした。デナリ峠上部のの悪魔の風に飛ばされたか、滑落したか。今も多くが謎に包まれています。

 その青竹を、僕は見たわけではないのです。 当時、日刊スポーツ新聞社は、その植村氏と明大山岳部でザイル・パートナーだった中出水勲デスク(後スポーツ部長)を現地に派遣、捜索と記事報道に送り込みました。

 「おい、後藤。今日は青竹を見つけたよ。雪原の中に、青竹が1本、ポツーンと立っていた。威張って立っていた。植村、きっと生きとるよ」。ある日、現地から、記者の先輩でもある中出水さんがやや興奮した口調で電話してきました。連日の努力にもかかわらず、悪天候もあってなかなか山そのものの捜索が始められなかったのですが、ようやく天候が回復した日のことでした。

 その時、僕も心の中で、鮮明に雪原の青竹を見たのです。大自然の中で、まるで運命に抗するかのように、ほこらしく立ち続けていた植村さんの青竹。

 あまりにも象徴的でした。

シンポジウム「植村冒険館」設立15周年記念
シンポジウム「植村冒険館」設立15周年記念

 去る1月26日、板橋区立文化会館で、同区にある「植村冒険館」設立15周年記念のシンポジウムが開かれました。

 200人を超す来場者が詰め掛け、植村さんの最後の雄姿をビデオ取材した大谷映芳さん(元テレビ朝日ディレクター)が、マッキンレーに出発する植村さんの映像などを紹介しながら基調講演を行い、その後で元国立極地研究所所長の渡部興亞さん、リヤカーで世界を回った長勢忠志さん、MTBの冒険ツーリングなどで知られる安東浩正さんらが出席して、植村直己さんの冒険者としての再評価などを話し合うパネルトークが行われました。

 司会をおおせつかったので、場違いとは思いつつ僕も壇上でお話に加わりました。

 植村冒険館としては「登山家のイメージが強い植村さんだが、原点はあくまで冒険家だった。アムンゼンやスコットと肩を並べる、偉大な冒険家としての植村さんと、その姿勢や熱い魂を、次に世代にもぜひ伝えてほしい」という願いを持ち続けています。

大谷映芳さんの基調講演
大谷映芳さんの基調講演

 今は商業的な冒険がもてはやされたり、有名になることを前提として、あらかじめ「成功したらテレビに出て、本書いて、タレントとして活動して」といった大きなプロジェクトで「自分」を売り出すための冒険が、結果的には多くなってしまいました。

 お金のかかることですから、ある程度は必要ですが、各氏とも言葉は異なるにせよ、「植村さんの場合は、自分が社会的に有名になろう、タレントとして発言しよう、などという気持ちはさらさらなかった。自分ではなく、自分が残す足跡で何かを語ろうとする人だった」といった、植村さんならではの孤高の精神を、あらためて強調されていた感じがします。

 植村さんの人生については、以下のURLをご参照いただければさらによくご理解いただけると思います。簡潔で的確に植村さんの人生とやろうとしたことが記されています。

是非お目通しください。

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 電子フリー百科事典 ウィキペディア 検索=植村直己

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9D%91%E7%9B%B4%E5%B7%B3

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 足跡で語る。

 しかも植村さんが語りたかった足跡は、何も世界の高山や極点につけられた「栄光の足跡」ではなく、むしろそこに至るまでの平凡な、ごく日常的な足跡ではなかったかと、僕は思います。

 幾多の冒険に挑みましたが、失敗も少なからずあったようです。

 また、お金にからまねばならず、結果的に形の上では成功したけれど、自身としては納得のいかない冒険もあったようです。

 でも植村さんの冒険はそのほとんどが基本的に手作りで、足らない部分を時間と手間で補う、実に「人間・植村」がにじみ出る冒険でした。

 マッキンリーへ行くときも、最新機材やマスコミ絡みの大掛かりな資金という土台の上に立ってどんと乗り込んでいくようなことをせず、まず現地の人たちの生活そのものに溶け込み、現地の食事、現地の道具を使い、そこに「住む」ことから、冒険を始めました。

 一歩一歩、から始めたのです。

 世界の高峰に立つための体力作りも、同じように一歩一歩からでした。

 それが植村方式でした。

 その一歩一歩こそ、僕は植村さんが伝えたかった足跡だと思うのです。

 あの青竹は、日本から持ち込んだもので、クレバスに落ち込むのを防ぐためのアイデアでした。長年の冒険からにじみ出たアイデアでした。あの青竹で、一歩一歩歩いていった、その究極の冒険者精神、スポーツからみれば究極のアマチュアリズムこそ、植村さんでした。

 シンポジウムで、大谷さんが公開してくれた「マッキンレーにこれから挑む」ビデオに、植村さんが、両腰に青竹をくくりつけ、さも楽しげに雪原を歩いていく場面が移っていました。

 僕が(見てもいないのに)ずっと思っていたのと全く変わりない、懐かしい場面でした。

 植村さんは、まだアラスカのどこかにいるかもしれません。いないかもしれません。でも少なくとも、僕らの胸の中に、今も生きています。冒険を楽しみながら、そのための手作りの準備を楽しみながら、一歩一歩を楽しみながら。

 偉業そのものも次の世代に伝えねばなりませんが、むしろ大切なのその過程たるあの一歩一歩、青竹の足跡ではないでしょうか。

 またこれは植村さんの話のみならず、今の日本にとって(忘れられがちだが)重要な物の見方、考え方、生き方のすべての原点が、そこにあるのではと思えて、しかたありません。

 植村さんは1941年2月12日に生まれました。

 1984年、くしくも2月12日、マッキンレーの厳冬期単独初登頂に成功したとみられ、しかしその後行方がわかりません。今はヘリコプターが最後に雄姿を確認した2月16日を命日としています。享年44。4月、国民栄誉賞を受賞、記念館が設立されました。

植村冒険館(東京・板橋区) http://www.uemura-museum-tokyo.jp/



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プロフィル
後藤新弥(ごとう・しんや) 日刊スポーツ編集委員、61歳。ICU卒。記者時代は海外スポーツなどを担当。CS放送・朝日ニュースターでは「日刊ワイド・後藤新弥のスポーツ・online」(土曜深夜1時5分から1時間。日曜日の朝7時5分から再放送)なども。
 本紙連載コラム「DAYS’」でミズノ・スポーツライター賞受賞。趣味はシー・カヤック、100メートル走など。なお、次ページにプロフィル詳細を掲載しました。
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