<第87回箱根駅伝>◇3日◇復路◇箱根-東京(5区間109・9キロ)

 記録ずくめの復活優勝だ!

 早大が史上最小の21秒差で、3連覇を狙った東洋大を制し、1993年(平5)以来18年ぶり13度目の総合優勝を果たした。往路優勝の東洋大との27秒差を、復路スタートの6区で逆転。8区からの東洋大の猛追を振り切り、10時間59分51秒の大会新記録で頂点に立った。区間賞は1区の大迫(1年)1人だけでの快挙。スター選手だった渡辺康幸監督(37)が掲げた「エース不要」のチームづくりが結実。出雲(昨年10月)全日本(同11月)と合わせ、90年度の大東大、00年度の順大に次ぐ史上3校目のシーズン3冠も達成した。

 早大の中島が、必死の形相で逃げた。ヒタヒタと東洋大の山本が迫る。最終10区の中継所で40秒だった差は、残り1キロで半分の約20秒差に。「怖かった」と中島は何度も振り返る。その度に、監督車から渡辺監督がげきを飛ばした。「追う方もきついぞ。逃げるだけだ!」。外堀通りを右折すると、中島の目に150メートル先の白いゴールテープが飛び込んだ。

 「勝った!」。仲間が早大の校歌「都の西北」を歌っていた。中島は思わず右手を突き上げた。ゴールすると、その輪の中に飛び込んだ。往路復路合わせて217・9キロの壮絶な戦いが、わずか21秒差で決着がついた。部員の誰もが泣いている。出雲、全日本と優勝したが、この日のために胴上げは封印していた。待ちに待った初の胴上げで、10キロ以上減量した渡辺監督が、3度舞った。選手らが1人ずつ胸に飛び込むと、こらえていた熱い涙が渡辺監督のほおをぬらした。

 渡辺監督は1週間前に大きな決断を迫られた。5区に予定していた佐々木が座骨神経痛で、9区予定の志方が右足甲の疲労骨折で欠場が決まった。ともに出雲、全日本を制した主力選手。「飛車角落ちです。本当に悩んだ」。苦悩の末に4年生の猪俣、中島、3年生の八木、三田を投入。層の厚さで乗り切った。

 志方の代わりに9区を走った八木も、昨年11月の全日本駅伝後に疲労骨折していた。練習をまともにできなかったが、自室で泣きじゃくる志方に「頑張ってください」と逆に励まされた。往路後、八木は「お前の分も走るぞ」と志方にメールを送った。その言葉どおり、見事に代役を務めた。

 新生早稲田の誕生でもあった。「これが本当の駅伝なんです」。渡辺監督が力を込めた。「箱根のスター」と呼ばれた自分を含め、瀬古や、3羽がらすと言われた櫛部、花田らエースを量産してきたのが早大だった。しかし、渡辺監督は「エースはいらない」をテーマに、誰もが高いレベルで走れる層の厚い駅伝を追求。故障者が出ても、それを仲間が埋めることで、見事な3冠を達成した。

 04年4月に監督に就任した当時、エース育成のために厳しい練習をさせたところ、故障者が続出した。「最初の1~2年が本当につらかった」。反省からエアコンのない旧合宿所の応接室に1年近く寝泊まりし、選手と生活をともにした。「今の選手は昔と違う。腹八分目の指導が大切と痛感した」。そこからエース不要のチーム作りを徹底した。

 今大会、区間賞は1区の大迫だけで総合優勝を勝ち取った。区間賞1つだけの総合優勝は、くしくも渡辺監督が理想のチームとしてきた駒大が08年に達成して以来。「やっとやってきたことが正しかったと証明できる」。試行錯誤の7年が「長かった。選手時代よりうれしい」という喜びに代わった。

 すでに1年後の戦いは始まっている。「これから我々が追われる立場。しかし、今年と同じ気持ちで挑戦したい」。今回走った10人のうち6人が残る。佐々木、志方もいる。「2年連続3冠をやれるチーム」。新生早稲田の歴史は、今、始まったばかりだ。【吉松忠弘】