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【1976年10月25日付本紙より】

1976年10月25日付本紙より)
1976年10月25日付本紙より

危険な雨”避けた不死身男ラウダ

 ◇十月二十四日◇決勝◇静岡・富士スピードウェイ(右回り、一周四・三キロ)七三周◇参加二十五台、完走十一台◇晴れ◇観衆7万2千人

 日本初のF1レースの選手権(シリーズ最終第十六戦)は二十四日、静岡県富士スピードウェイ(右回り、一周四・三キロコース)で七十三周(三百十八キロ)の決勝レースを行った。レースは雨のため二時間遅れでスタートしたが、米国のM・アンドレッティーが六十二周目に独走していたJ・ハント(英国)をかわし、そのまま1時間43分58秒86(平均時速183・615キロ)で優勝。総合ポイント3点差でラウダを追っていたハントはその後一時は五位まで転落したが、必死に追い上げ最終周に三位に上がり4得点を獲得。二周目に放棄したラウダに対して69点対68点で逆転。’76シリーズ総合チャンピオンの座を獲得した。なお出走二五台中完走十一台という過酷なレースだったが、日本勢は高原(九位)長谷見(十一位)がともに完走。(観衆7万2千)

ハント自滅待ちがウラ目

 夜明け前には四万人が入場。降りしきる雨の中で、スタート予定時間の一時半が近づくと、傘の輪が小刻みに震えた。目の前を試験走行するF1マシンが疾走。というより約二百メートルも水しぶきをはね上げて、水びたしのコース上を“軽快魚雷艇”のように滑る。「すごい!」という声の中で「こんな状態の中では、やっぱり中止かなあ」というざわめき。最高二万円の入場券。その熱気は、今にも爆発寸前。ようやく午後二時半「三時にスタートします」とアナウンスがあったとき、スタンドのファンはピットロードを歩いていくJ・ハントに対し絶叫した。「ハント、ランラン・・・・・・」そして出走を促す大拍手。

 まるでレース前に“もう一つのレース”を経験したかのような緊迫感があったが、レーサーたちも同じ。「レース前のレース」の熱戦を展開したのだ。ラウダは決勝ではわずか二周を流しただけでピットイン。「こんな危険な状態の中では走れない。真剣勝負は出来ない」と静かにいったが、F1レース・プロカメラマンのジョー・ホンダ氏は「例えばラウダ自身がケガをした西独6Pなどはもっと激しいにわか雨でスタート。“雨が危険”というわけではなく、本音は、あえて走らなくてもハントが自滅すればチャンピオンが転がり込む、と判断したはず」と指摘。ラウダは、ハントの独走が堅いとみて、中盤でヘリコプターで東京へUターン。

 つまり、ラウダとハントのF1ポイントの差は3点(1位から9、6、4、3、2、1点)。ラウダは前戦まで68対65でハントを離していた。ハントがこのレースで五位以下であれば、ラウダは走らずとも総合優勝。その計算が露骨に表されていた。

 走らなければ勝てない宿命のハントは、満々の決断を、かみ締めたクチビルに表して、いち早くマシンに乗り込んでスタートの決定を待ったが、ラウダはなかなかピットにも入らず「走りたくない」表情が。気迫の点で、ラウダ対ハントの勝負はすでについていた。

 途中でリタイアしたプライ選手らは「総合優勝をかけたハントらは別だろうが、神経がズタズタになるほど怖いレースだった。コースアウトしたマシンをピットまで押し戻して帰る気力もないよ」と表情をひきつらせて、完走率四〇%の過酷なレースを振り返る。

 しかし、こういった駆け引きを別にして日本の専門家、ファンは酔っていた。「こんな雨の中でも直線の最後まではぎりぎりまでブレーキングを遅らせる。タイヤの交換作業も二十秒。さすがF1だ」(田中健二郎=解説者)

 「スリル満点、胸がスカッとした」というファンは、興奮の余韻残るコースをいつまでもみつめていた。【後藤】

最終回に劇的な突進

 「ジェームス・・・・・・君がワールドチャンピオンになったんだよ」−− レースが終わり、ピットに引き揚げてきたハントを囲む人がきの中で、イギリス人記者が大声で怒鳴った。愛車マクラーレンを降りたハントが、首を横に振りながらレーシングマスクを外す。「ジェームス、本当にお前がチャンピオンだ」声が輪になって飛んだ。

 ハントは自分のスポンサーであるマルボロのタバコを差し出されると、慌ててそれを口にくわえながら「ウソだろう。てっきり六位だと思っていたのに。」本当に三位に入ったのか?総合優勝できたのか額にたれた長髪から水滴が一つ、二つ。ハントのタカのようなヒトミがにわかにやわらいだ。

 ハントが錯覚したのも無理はない。前列左からスタートししたハントは速くもトップ。中盤もグングンと十周というところでバースト(破壊)。

 しかし“ツキ”というものは常に強い者の手の中に転がり込むのだろうか。ハントを抜いたデュパイエも続いてバースト。六十八周目にピットインして大きくタイムロスしたハントだが、最終周にはヘアピンの手前で一気に五位から三位へ上がっていた。もし2千メートルコースが短ければ、ハントは総合優勝できなかった。宿敵ハンス・ラウダがわずか二周でどいてくれた。それも意地の一つ。

 イングランド出身の初めてのF1チャンピオンは二十九歳。今年の初め、愛妻が俳優R・バートンのもとに逃げた。そのときも「幸運は向こうからくる。悪運は向こうから去る。今のオレは強い星の下」と“燃えている人生”を堂々と公言したものだ。

 雨のため一時は日本の星野一義が三位(五〜十周)に食い込んだほどのハプニングが“強運”ハントに筋書きを合わせてしまった。

 J・ハントは最後にこういった「ラウダがリタイアしたのは正しい判断でしょう。きょうは酔っぱらいたい」【工藤】



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