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【1977年10月24日付本紙より】

1977年10月24日付本紙より)
1977年10月24日付本紙より

“魔の第一コーナー”で大惨事!

 ◇十月二十三日・午後一時◇静岡県富士スビードウェイ(右回り四・三キロコース)◇決勝◇出場二十三選手◇観衆七万二千人◇晴れ、微風◇気温十九・九度

 富士スビードウェイの“魔の第一コーナー”で観客席の二人が事故に巻き込まれて死亡、六人が重軽傷を負う、日本の自動車レース史上初めての大惨事が起きた。二十三日午後一時十分ごろ、静岡県駿東郡小山町の同コースで行われていたF1世界選手権シリーズ最終戦、日本グランプリの六周目で四番手のG・ビルニュープ選手(カナダ、フェラーリ)が、前のR・ピーターソン選手の(スウェーデン)を、時速二百キロ近いスピードで追い抜こうとしてタイヤが接触した。はずみでビルニュープ選手の車は空中で一回転、観客席に突っ込んだ。この事故でアルバイトで会場整備に当たっていた東海大三年湯浅謙吉さん(二十一)、プロカメラマン大橋和裕さん(二十五)の二人が頭などに車の破片を受けてまもなく死亡したほか三人が重傷、三人が軽傷を負った。レーサー二人は無事だった。同スピードウェイでの死亡事故は四度目。 (観衆七万三千人)

足がすくんだ!

 「あっと思った瞬間、真っ赤なマシンが宙を飛んで、頭上に迫ってきた。ワーッとどよめいた人がきに押されながら、マシンが鉄条網の直前にに“着陸”するのを見た。十人ぐらいをなぎ倒しながら、その赤いフェラーリは大きくもう一度人がきを超えて宙を飛び、ガケ下の方へすっ飛んでいった。足がすくみ、まるで映画のシーンを見ているような一瞬が過ぎた」「ギャーッという悲鳴で我に返ったのはしばらく後。友達の山下さんが横に倒れていた」−−。事故を目撃した安田和昭さん(二十二)=東京都東大和市、会社員=はぼう然とした表情で“その瞬間”を語った。

 事故が起きたのはスタート後約十分過ぎた六周目。十五位前後を走っていたピーターソンが、第一コーナー入りしなに、前に行くビルニュープの赤いフェラーリ車を外側から抜いた。この時、ピーターソンのマシン右後輪に、抜き返そうとしたビルニュープの左前輪が乗り上げるように追突。

 ピーターソンは「衝突を感じたと思ったら赤いマシンが私の頭上を飛び越えて宙返りしながら飛んでいくのを見た」(事故後)

 マシンが突っ込んだのは、俗にいうエスケープゾーン(緊急避難地域)。曲がり切れなくなったマシンがここに逃げて、突き当たりのタイヤの列で比較的安全の止まれることができるようになっている。

ガードマン黙認

 ところがこの日は観客がタイヤの列の端と、自由席の金網とのわずかなすき間から入り込み、このデルタゾーンを埋めつくした。このため主催者側はスタート前に、懸命に観客を排除、タイヤの列の前に臨時に鉄条網を張った。

 大会事務局の弁明では「観客が、タイヤと鉄条網の間に入り込んできたので、それを排除しようとしていたガードマンが死亡事故に遭った」と発表しているが、前出の安田さんによると「ガードマンは鉄条網のとタイヤの列の間に観客が入るのを黙認していた」と語っている。

まるで地獄絵図

 「救急車が来るのに五分。それが一時間にも感じられた。周囲は倒れたガードマンや、血流した観客でまるで地獄絵図だった」(安田さん)

 こうして日本のレース史上初めて、観客を死亡事故に巻き込む恐怖の事故が一瞬にして起きたのだ。皮肉なことにビルニュープのマシンは“正常位”でガケ下に着地したため、コース左外側に停車したピーターソンともども選手は無傷。

 この日は、スタート直後の二周目にもヘアピン・カーブで事故。優勝候補のアンドレッティがガードレールに激突し、タイヤを飛ばした。これをよけようとしたH・ビンダー(サーティーズ車)がスピンを始め、後続の高原と接触。一瞬にして三台がリタイアした。この時もドライバーは無傷。レースは何事もなかったかのように予定通り七十三周を非情に走り切った。【後藤】

魔の第一コーナー

 富士スピードウェイの大きな事故は、例外なく第一コーナーで起きている。約一キロの直線コースで時速三百キロの猛スピードで走行して来てカーブに突っ込む。時速百二十キロまで急減速(五速ギアから二速へシフトダウン)する。百分の数秒のハンドル操作もブレーキの遅れも許されない。競り合う選手は勝負どころ、ぎりぎりまで我慢する。それだけ危険度も高くなる。ビルニュープ選手のマシンは事故当時、時速百六十キロ前後は出ていた。逆にいえば“特別席”で、殺到する場所でもある。

 昭和四十一年、同コースが完成した時は一周六キロコースだった。この日は事故が起きたコーナーがなく、ホームストレートが真っすぐ伸び三〇度のバンクを持つ右カーブとそれに続く“須走り落とし”といわれる急坂、さらにS字カーブがあった。昭和四十一年の日本GPで永井賢二選手(法大)が死亡したのをはじめ、このバンク個所で事故が続発した。このため四十九年にバンクからS字カーブをカット、約1.8キロ短縮し、現在のコースとなった。 ;

 しかし、現在のコースもうながれた部分である第一コーナーの右カーブは抜け切るまでに約三十メートルの落差があり最大の難所である。

ハント、独走の優勝

 去年の世界チャンピオンJ・ハント(マルボロ・マクラーレンM26)がスタートからトップにに出て、そのまま独走、七十三周三百十八.二〇七キロを平均時速二百七・八四〇キロ、1時間31分51秒68で走りきって優勝した。同選手の優勝は今季三度目。ポールポジションを取っていたM・アンドレッティ(ロータス)は二周目にヘアピンカーブの手前で事故を起こしてリタイアした。日本選手の最高は高橋国光(タイレル007、七十一周)の九位だった。



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