3月5日、2020年東京パラリンピック開幕まであと2000日の節目を迎えた。東京は史上初めてパラリンピックを2度開催する都市になる。1964年の東京パラリンピックに出場した近藤秀夫さん(79=高知県安芸市在住)に、当時とその後の人生を振り返ってもらうことで、パラリンピック開催の意義を探ってみる。

***********

「重い障がいが転機に」

 近藤さんは福岡県田川市の炭鉱での事故で脊髄損傷の重傷を負い、下半身が不自由になった。16歳だった。12歳で父を結核で亡くし、一家は離散。中学進学をあきらめて生きるために働いた。事故に遭った当時は運送会社に職を得ていたが、寝床は馬小屋の横のわら小屋だった。

 近藤 病院で目が覚めたら、白い布団の上で寝ているからびっくりした。ご飯も朝昼晩運ばれてきた。なんて自分は運が強いんだ、もう2度とこの生活は手放さないぞと思いました。

 重い障がいを「強運」と受け止める。そこには想像できないほど貧しく、厳しい時代背景があった。3年後、別府の重度障害者センターに移る。ある日、そこに国立別府病院の整形外科医の中村裕(ゆたか)医師が現れ、近藤さんら若い障がい者にスポーツを勧めた。

 近藤 東京五輪の2年前でした。20代で元気だった私に先生は「パラリンピックに出したい」と言って、お尻にできた床ずれの手術をしてくれた。その時に先生がパラリンピックの東京招致活動をしていることを聞きました。当時、先生はどうしたら障がい者が社会復帰できるか悩んでいた。それがスポーツと結びついた。翌63年、私たちは日本初の車いすバスケットボールチームを結成しました。

【取材・構成=首藤正徳】

 ◆パラリンピックの起源 48年ロンドン五輪開会式の日、英国のストーク・マンデビル病院で入院患者のために行われたスポーツ大会が国際大会に発展。大会を提唱したグッドマン医師を会長に、60年には国際ストーク・マンデビル大会委員会が発足した。この年に五輪開催地となったローマで行われたのが第1回パラリンピック。

<3に続きます>