慶大ラグビーを日本一に導いた上田昭夫(うえだ・あきお)氏が23日、帰らぬ人となった。慶大、日本代表でSHとして活躍し、引退後もラグビー界の発展に尽力してきたが午前7時39分、代謝性疾患の難病アミロイドーシスのため都内の自宅で死去。62歳だった。161センチと小柄ながら抜群の情熱と行動力で慶大と日本のラグビーを引っ張ってきたが、昨年秋から体調を崩して入退院を繰り返していた。

 ラグビー界の「顔」が逝った。選手、指導者として活躍し、スポーツキャスターとして情報発信を続けてきた上田氏。3年前のフジテレビ退社後もラグビー解説やスポーツイベント開催など多方面に才能を発揮していた。07年には個人ブログ「スポーツひとりごと」を開始。あらゆるスポーツ情報を発信してきた。

 ブログによれば、最初の入院はラグビーシーズン幕開けの昨年9月。痛む左足の手術が目的だった。年末年始こそラグビー解説などで仕事復帰したが、2月に再入院した後は体調が優れず。入退院を繰り返していた。かつては毎日のように更新していたブログも、2月からは激減していた。

 それでも、ラグビー、スポーツへの情熱と愛情は変わらず。なでしこジャパンを応援するサッカー女子W杯の書き込みもあった。しかし、本人が記した最後の6月30日は「体調が良くなくて…。気温の変化に体が対応できない」。珍しく弱気な言葉が並んだ。

 161センチの体で、大男相手に活躍した。慶大卒後は東京海上に入社したが、ラグビーをするために社会人の強豪、トヨタ自動車に転職。日本一に輝いて引退すると、今度はコーチとして慶大復活を目指した。84年に監督となり、2季目の86年1月には日本選手権で自分が勤めるトヨタ自動車を破って日本一になった。

 選手のモチベーションを高めるのが、抜群にうまかった。トヨタとの日本選手権、試合前のロッカールームで取り出したのは、大学選手権優勝の賞状。「俺たちの欲しいのは、こんなものじゃない」と破り捨てた。涙で勝利を誓った選手たちは、下馬評を覆して日本選手権優勝を成し遂げた。

 「勝っちゃったから、もういられないだろう」と、ジョーク交じりに2度目の転職。テレビで、スポーツを伝える立場になった。94年には母校の監督に2度目の就任。95年には総監督となって、組織や体制づくりに奔走した。優秀な高校生を手紙で誘い、小論文対策や模擬面接などで合格させた。付属高を強化して大学につなげ、創部100周年の99年度には再び大学選手権優勝に導いた。

 昨年度、強化してきた慶応高が花園出場。独自のスカウティングで優秀な新入生も集まるようになり、創部120周年の19年度大学日本一を夢見ていた。同年のW杯日本大会では、盛り上げる役目も期待されていた。まだまだ、やることは多く、志も半ばだったはず。日本ラグビー界が、大切な「顔」を失った。

 ◆上田昭夫(うえだ・あきお)1952年(昭27)10月21日、東京都生まれ。慶大でSHとして活躍し、トヨタ自工(現トヨタ自動車)で日本一。日本代表キャップ6。84年母校監督に就任、86年に日本選手権初制覇。94年2度目の監督に就くと、再び大学日本一に導いた。

 ▼アミロイドーシスとは? 熊本大大学院生命科学研究部・安東由喜雄教授の話 「アミロイドーシス」は、アミロイドという難溶性のタンパク質が、心臓や腎臓、消化器官、末梢(まっしょう)神経などにたまり、臓器に機能障害をもたらす病気。発熱や下痢、患部の腫れなどの症状が起こりますが、症状が一般的なため、発見が遅くなる可能性が非常に高いです。全国で1000~2000人という珍しい病気で、公費負担の対象となる難病に指定されています。50歳を超えると男女問わず起こりえるし、中でも多いのが全身性の1つである「ALアミロイドーシス」です。治療は抗がん剤を用いて行い、早期発見できれば5~6割の人が寛解します。全国の20~30カ所の施設で治療などを受けられますが、その数が多いとは言えません。