低迷続く日本の重量級に光が差した。男子100キロ級の羽賀龍之介(24=旭化成)が、初出場初優勝を飾った。決勝でカールリヒャルド・フレイ(ドイツ)に指導差で勝利。高校時代から「井上康生の後継者」と呼ばれた大器が昨年派遣すら見送られた100キロ級で頂点に立ち、リオデジャネイロ五輪に弾みをつけた。

 羽賀の心に満ちたのは、歓喜、それ以上に安堵(あんど)だった。

 「いろいろな人に申し訳ないなと思っていた。去年の代表がなかったのも自分のレベルがないとか。結果を残せていろいろな人に恩返しできるのかな」

 端正な顔を紅潮させ、感慨深げに汗をぬぐった。期待を浴び、裏切り、苦しんできた。すべてが報われるため、内股を信じ続けた。

 初戦、その得意技で一本勝ち。ただし、「対応されていていつもより難しい」と実感した。2月の国際大会で連戦連勝。対策を立てられ、1回のチャンスを待つ展開が続く。我慢して焦れずに、決勝までの6戦で4戦が内股でのポイント勝ち。決勝も相手が警戒したことで、優位に立った。

 昨年だった。4月の全日本選手権後に、世界選手権100キロ級の派遣見送りが決まった。同級の1番手だった羽賀は自らの憤りに満ちた。「自分のレベルが低かったから」。この1年、死に物狂いだった。試合中に心が折れる課題も、悔しさが変えた。この日は「去年出ていない気持ちは自分だけ」と燃えていた。

 「我慢」はずっとしてきた。東海大相模高1年の金鷲旗大会で史上初の20人抜き。同じ高校、同じ得意技から、左右の違いはあれど日本代表の井上監督に重ねられた。だが、高3の9月に左肩を脱臼し、東海大進学後の12年5月にも再び脱臼。手術で復帰まで約1年。井上監督と比較する質問に「何度も言われているので、もう何とも思わない。自分は自分ですから」と語気を強めたこともある。まともに柔道ができない日々に耐えた。

 切れ味鋭い内股は、父善夫さん(52)譲り。講道館杯で優勝経験を持つ父から今でも助言をもらう。さらに井上監督にも「得意だったので共通する悩みがあり、アドバイスをもらう。肩の故障の時も『焦るな』と言ってくれた。頼りになるし尊敬しています」。2人の師で武器は磨かれ、今後も切れ味を増すだろう。「やっとリオで金メダルを狙うと言える」。我慢し続けた大器が大輪を咲かせた。【阿部健吾】

<羽賀龍之介(はが・りゅうのすけ)アラカルト>

 ◆生まれ 1991年(平3)4月28日、宮崎県生まれ。母は国体で活躍した競泳選手。本人も小6まで競泳を続け県大会2位。「昇り龍」が名前の由来。「どんどん上を目指してほしかった」(父善夫さん)

 ◆サイズ 身長186センチ。中1は66キロ級で中3で90キロ級に。

 ◆競技歴 埼玉県に引っ越した5歳の時に兄善之助さんと一緒に始める。小3で横浜市に移り、名門の朝飛道場入門。東海大相模高では高3の総体で100キロ級オール一本勝ち。東海大進学後、10年日本ジュニア、世界ジュニア優勝。同年講道館杯も制し、父子優勝を達成。14年に旭化成に入社。

 ◆恩返し 決勝前には鈴木コーチに「勝って男にします」と宣言。国際大会で重量級の低迷長く、「軽量級のコーチはニコニコで、いつも桂治先輩だけぐったりしていて」。

 ◆勧誘 恵まれた体形を見たラグビー日本代表のジョーンズ・ヘッドコーチから勧誘されたことも。「ビックリしたけどうれしかった。『東京五輪のあとで』と言っておきました」。