ラグビー日本代表で主将、監督を務めた神戸製鋼ゼネラルマネジャー(GM)の平尾誠二(ひらお・せいじ)氏が20日午前7時16分、53歳で死去した。詳細は非公表。京都・伏見工高3年時に司令塔(SO)として全国制覇。同大では史上初の大学選手権3連覇、神戸製鋼でも日本選手権7連覇、W杯にも3大会連続で出場した。34歳で日本代表監督に就任するなど卓越した理論や情熱、カリスマ性で「ミスターラグビー」と呼ばれた。日本開催の19年W杯を前に、ラグビー界は大きな存在を失った。葬儀・告別式の日取りは未定。

<主な平尾誠二語録>

 ◆93年1月 1点差で東芝府中を退けての社会人5連覇に「強いから勝つ。やりくりしての優勝で、また自信になります」

 ◆94年1月 社会人6連覇を達成。翌シーズンからのコーチ兼任を前に「来季は新しい血が新しい神戸を作っていく。それが、日本が世界に近づくラグビーになるんです」

 ◆95年1月 新日鉄釜石に並ぶ社会人7連覇に「7年間も、本当によくやってきたなあ。正直いって、V7の重圧はすごかった。これをはね返すのは、本当にきつかった」

 ◆96年1月 サントリーに敗れて社会人8連覇を逃し、震災の影響を口にする周囲の同情に「震災のせいにするな。負けは負け。今、それを認めないと100年たっても勝てるか!!」

 ◆97年2月 現役引退し、神戸製鋼でラグビー界初となるGM就任を表明。「もう(7連覇を)引きずるのは良くない。新しい時代を作る上で、僕は邪魔かもしれない」

 ◆97年3月 日本代表監督として方針を表明。「禁酒、門限などで選手を管理するつもりはない」

 ◆99年10月 ウェールズでのW杯で3戦全敗。「しっかりした計画を持たないと(世界から)さらに離されていく。あきらめず、負けずに距離を詰めていかないといけない」

 ◆00年11月 日本代表監督辞任を表明し「(欧州)遠征で大敗を喫し、責任を感じていた。結果に対してけじめをつけたい。新しい流れを作るためには決断が必要」

 ◆07年3月 神戸製鋼のGMと総監督の兼任を発表。日本代表監督以来の現場復帰に「スーツからジャージーに変わることになりました。いろいろと考えた結果、自分しかいない」

 ◆11年3月 東日本大震災を受け「逆風の時は体を低くしましょう。結束して、全員で耐える。地震で揺れたとき、みんな感じたでしょう。立っているのが精いっぱいで『なんて無力なんや』と。でも、忘れたらあきません。人はすごい力を持っているんです」

 ◆15年12月 母校同大の8季ぶり関西制覇に「(優勝の)節目は大事。節目がないと次の段階にいけない。関西3位じゃ帝京に勝つのはしんどいんだから」