プレーバック日刊スポーツ! 過去の3月17日付紙面を振り返ります。2013年の終面(東京版)は、羽生結弦がソチ五輪の国別出場枠がかかった世界選手権で、ショートプログラム9位から4位に追い上げ、最大「3」枠を確保したことを報じています。

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<フィギュアスケート:世界選手権>◇第3日◇15日◇カナダ・オンタリオ州ロンドン

 強行出場した羽生結弦(18=東北高)が日本の窮地を救った。左膝、右足首痛に耐え、フリーは169・05点の3位。技術点1位の演技でショートプログラム(SP)9位から合計244・99点の4位と追い上げた。ソチ五輪の国別出場枠で、上位2人の合計順位が「13」以内で決まる最大3枠確保が命題の大会。SPの不振で危機のなか、手負いの全日本王者が驚異の精神力をみせた。高橋大輔(27)は合計239・03点で6位、無良崇人(22)は8位、チャン(カナダ)が3連覇を飾った。

 もう体力はなかった。心肺の酷使で乱れる呼吸、うずく両足の痛み。フィニッシュで高く上げた両手を振り下ろし、膝を折って四つんばいになった。額を氷に付け、激しく体は震える。「どうしょうもない状態」で浮かんだ言葉は「ありがとう」。羽生は静かにつぶやいた。

 羽生 やり切った。体調が悪い中で、たくさんの方が体と心のケアをしてくれて、本当に感謝でいっぱいだな。終わってへたり込んで、氷にもすごく感謝!

 演技中、いつ倒れてもおかしくなかった。4大陸選手権後にインフルエンザで10日間休養。さらに練習を再開した先月末に左膝の腱(けん)を負傷していた。

 痛み止めの注射を打ち、薬も服用。指圧師が寝ずの治療をしてくれたが、回復具合は30~40%。追い打ちをかけるように、朝の練習で右足首も捻挫…。この半月まともに練習できず体力の不安もあるなか、「痛みよりも感覚を取りました」。痛み止めの量を抑え、激痛にむしばまれていた。

 「すっごく不安」で、わずかな感覚が頼り。冒頭の4回転トーループから4回転サルコーへ。手をついたが、降りた。そこから「体力を残しておきたかった」とスピードを抑え、終盤へ。いつもの疾走感はないが、「枠取りなのに日本代表として申し訳ない。しっかりと最後まで滑りきろう」。使命感が痛みを超えた。

 演技後、思った。

 羽生 1年間やってきたことは1カ月くらいじゃなくならないんだな。

 故郷仙台を離れ、10年バンクーバー五輪金メダルの金妍児を育てたオーサー・コーチに師事するため、カナダのトロントに渡ったのは昨年5月だった。

 アパートで母と2人暮らし。地下鉄を乗り継ぎ練習場へ通う日々は戸惑いもあった。幼少期からぜんそくを抱える。ハウスダストなど呼吸器への影響を避けるマスクは日本では欠かせなかった。だが、カナダでは文化がなく「変な人に見られる」。冷たい視線も浴びた。通学は出来ず、通信教育。休みでも遠出はせず、練習と勉強に没頭した。悩めば、帰宅後も「家族会議」で母と映像を見て改善点を探した。時は過ぎていま、第2の故郷で積んだ1年間は、裏切らなかった。

 SP終了時で、上位2人の合計順位が、3枠確保に必要な「13」以内ギリギリだった日本男子。救った18歳はソチ五輪への道を自ら広げた。1年後、その舞台の頂点に立ち、再び言いたい。「ありがとう」と。

※記録や表記は当時のもの