あの22時間に何があったのか-。フィギュアスケーター、浅田真央(26=中京大)は今日12日に都内で引退会見に臨む。数々の記録、記憶に残る演技を紡いできた希代のヒロイン。その姿を象徴的にしたのは、14年ソチ五輪でのフリーの演技だろう。ショートプログラム(SP)16位と金メダルが絶望的になった状況から、いかに彼女は立ち直ったのか。フリーまでの22時間の真実、勝負の舞台を去るいまだからこそ、その軌跡を振り返る。(敬称略)

 浅田の失意の時間はただただ過ぎていっていた。ソチの夜は明け、午前8時35分から始まったフリーを控えての公式練習で動かした体が、どんどん冷めていく。選手村に戻るために着替えを始めないといけない会場のロッカールームで、競技人生最大の絶望に襲われながら、その場を動くことができなかった。

 浅田以外、誰もいない控室。近づいてきた足音の主は、佐藤信夫コーチだった。「行くよ」。なかなか出てこない愛弟子の異常事態を感じ取り、当時72歳の名伯楽は意を決した。「女性のロッカーに入るのはためらったけど、他には誰もいなかったし、これはまずいなと思いましたから」。立ち直るきっかけすら見いだせない浅田を促し、選手村へ帰るバスに乗り込んだ。

 その9時間前、誰もが予期できない失墜を味わった。2度目の五輪、金メダルを目指したショートプログラム(SP)は、3回転半の転倒も含めて、全3つのジャンプを失敗。シニア転向後最低の16位に沈んだ。「最初のアクセルから『いつもと違う』と思ってしまいました」「自分の考えと気持ちが違いました。(気持ちはいくと?)そうですね、でも体がついてきませんでした」。心身のズレを修正できないまま、頂点は絶望となった。