誰もが思うことだろう。自分を超えたい、限界の先に行ってみたいと。2017年9月、東京・中野区の稔ヶ丘(みのりがおか)高校(浦部利明校長)2部の2年生は文化祭で集団行動に挑戦した。厳しい訓練から生まれる規律、相互理解による団結力。それらなくして成功はない。極めて難度の高い競技に、周囲から無謀と言われながら挑んだ17歳の夏を見詰めた。(取材、文=井上真)

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 高校生の集団行動はそれほど珍しくはない。ひとつだけ知ってもらいたい事実がある。稔ヶ丘高校はチャレンジスクールだ。

 不登校、高校中退の経験者が目標を見つけ、専念できる環境の実現を趣旨に、チャレンジスクールは2000年度にスタートした。

 入試に学力検査、調査書提出はなく、志願申告書、作文、面接で選考される。都内に5校あり、稔ヶ丘高は07年度に都内5校目として開校した。

 朝から12時間の授業が継続する3部制を採用しており、今回集団行動に挑戦するのは午後(10時20分~16時20分)授業を受ける2部の2年生約80人だった。

 生徒の過半数、およそ3分の2が、小学校、中学校での不登校を経験している。

 不登校の要因は個々によって違うが、生徒は自分たちの性質を隠さずに端的に表現する。「運動も、集団で行動することも苦手です」。その生徒たちが、無謀を承知で挑んだ。

■もがく5人のリーダー

 暗たんたる思いで、5人のリーダーたちは現実に直面していた。8月お盆のころ。17歳の夏を集団行動にささげる覚悟はできていた。

 しかし、5人のリーダー以外の仲間は違った。練習に来ない。

 渡邊恭平(2年)、福島ひなた(2年)、小嶋剣信(2年)、小林真実子(2年)、富田公貴(2年)の5人は言葉には出さないが、心の中では本音を叫んでいた。

 「無理なんだよ」

 不登校を経験している生徒も含むこの5人のリーダーが、今回の無謀な挑戦で仲間をまとめようともがく中心的な存在になる。

 渡邊は場の状況に応じて会話を切り出す気配りができる。

 福島は視野の広さで、のちに記者の印象に深く残る言葉を放つ。

 小嶋は自分の言葉で複雑な心の揺れ動きを表すことができ、小林は自分の意志を明確に持ち、それを伝える。

 文化祭では指揮者として全体を統括する富田は、自信にあふれるリーダーらしい高校2年生。

 本来なら40人規模で練習する歩行の練習だが、出席率が上がらない。「最後の30分でもいいから来てよ」。リーダーたちがこまめにクラスメートに連絡を入れるが、リーダーたちの熱意と反比例するように、仲間の反応は薄かった。

 9月には本番を迎える。それなのに、20人弱の人数では、到底本番を見据えた練習どころではない。渡邊は当時の様子をこう振り返った。

 渡邊 足踏みがそろわないんです。無言、無表情。やらされている感が漂って、返事もない。みんな、下を見てる。笑わないし。

 苦しむリーダーたちの様子を、日体大の学生が見詰めていた。集団行動に所属する西野剛生(21)、佐々木空(21)、森和弘(21)だった。大学の許可を得て、稔ヶ丘高の生徒に集団行動の指導をするため、自発的に足を運んでいた。

■日体大清原監督が考案

 集団行動とはどんなものか。

 日体大の清原伸彦監督(76)が考案したもので、今では多くのテレビ番組で紹介され知られるようになってきた。

 60人が列になったり、円になったり、走ったりしながら、規則正しく集団で行動する。

 中でも、2つのグループに分かれ、スクランブル交差点を人混みが通過するがごとく、鮮やかに交差していく風景は、集団行動の美しさを象徴する。

 日体大の水球部で公式戦376連勝を成し遂げた清原監督が日体大の寮長を務めている時だった。荒れた上級生の私生活を改善するために、体育館で行進をさせたことに端を発する。

 やがて、年に1回の「体育発表・実演会」(横浜アリーナ)が恒例となり、その知名度は飛躍的に上がった。

 運動能力に長けた日体大生ですら、厳しい訓練を重ね、何度も反復練習をして実演会に臨む。4月から12月までの8カ月で踏破する距離は、およそ1000キロ。東京から鹿児島・枕崎に至ると言われる。

 とにかく歩いて、歩いて、歩き通す。体力的にも精神的にも非常に高いレベルが求められる。

 その集団行動に、「集団が苦手」と自覚する高校生が挑むというのだから、周囲はハラハラを通り越して、半信半疑だったことも無理もない。

 それが、ひとつのつながりから、大きな「チャレンジ」へと発展して行く。稔ヶ丘高の国語担当の柳本満春先生(31)は、稔ヶ丘高に転任する前は調布南高に勤務していた。その時の教え子が、日体大生の西野だった。(つづく)