「監督辞任だけでは体質や体制は変わらず、問題解決はしない」。日大アメリカンフットボール部OBを含めた複数の関係者は19日、内田監督辞任だけでは事態は収まらないと明かした。監督はコーチ陣全員の残留を明言し、日大常務理事などの役職としての責任は別問題とした。関係者はラフプレーを容認したコーチ陣の総退陣に、内田監督が役職から離任しない限り解決にはならないとした。まだ部の存続危機に変わりはないと怒りを込めて話した。

 

 内田監督が6日の関学大戦後、初めて公の場に姿を見せた。「すべては私の責任」と謝罪はしたが、1人で全責任をかぶるつもりのようだ。ラフプレーの反則は監督指示とされるが、詳細は24日までの再回答でとした。その内容にもよるが、日大関係者は「これでは誰も納得しないし、解決にはならない」と断言した。

 今春のオープン戦では15人のコーチが試合登録していた。内田監督はコーチ陣の辞任については「考えていない」と全員残留させるつもりだ。関係者は「コーチもみんな辞めなければ体質は同じ」とあきらめ顔で話した。

 関学大戦で退場となったDL選手がベンチに戻っても、コーチは誰ひとり注意する様子はなかった。1人は話をしていたがヘルメットをなでるようなしぐさ。通常は最初の反則でベンチに下げて注意する。コーチもラフプレーを容認したと言え、監督指示でなかったとしても、指導する姿勢に問題がある。

 さらに関係者は根本的問題があるという。内田監督は人事担当の常務理事で、相撲部総監督でもある田中理事長の側近の1人。人事部長に運動部予算を握る保健体育審議会局長も務めるNO・2の座にいる。内田監督は役職については「それは違う問題ですので」と辞任の考えはないようだ。

 関係者は苦笑しながら言った。「監督を辞任しても院政になるだけ。もし総退陣しても、息のかかった後任を連れてくれば同じだ。役職、本体から離れなければ、部への影響力に変わりはない」。

 事実、日大の強豪付属高で長年指導してきたOBの監督が、4月1日付でアメリカンフットボール部のない付属高へ転勤となった。「人事を握っているので誰も何も言えない状況にある」。コーチから外れてから転勤となった日大職員のOBもいるそうだ。

 OBらの関係者は部員の今後、将来を心配する。名門の看板に傷はついたが、部の存続だけは願っている。ただし「内田監督が本体を離れない限り協力や支援する考えはない」とも話した。そうしたOBは多く、騒動の結末を注視している。

 

 ◆内田正人(うちだ・まさと)1955年(昭30)8月9日、埼玉生まれ。日大豊山から日大に進み、アメリカンフットボールを始める。OLのセンターで4年時の77年に甲子園ボウル出場も、関学大に5連覇を許して日本一にはなれず。78年に卒業と同時にコーチ就任、79年に日大職員となる。篠竹前監督が退職して03年に監督となり、07年に17年ぶりで甲子園ボウルに進出。16年に退任したが1年で復帰し、5度目の甲子園ボウルで関学大を破り、日大として27年ぶり、監督としては初の大学日本一となった。

 ◆日大アメリカンフットボール部 1940年(昭15)に日本では6番目に創部した。55年に篠竹前監督が4年時に関東初優勝し、甲子園ボウルで関学大と引き分けて初優勝した。翌56年に単独優勝、59年に篠竹監督が就任して5連覇。アンバランスT、ショットガン隊形やスパルタ練習で常勝軍団となる。90年代から低迷も昨年27年ぶりで甲子園ボウル制覇。関学大の28度に次ぐ21度の優勝を誇る。ライスボウルは4度制した。フェニックスの愛称は50年代に最強を自負した全日大の不死鳥倶楽部に由来。チームカラーは赤。