「氷上の哲学者」として知られた元フィギュアスケーターの町田樹さん(30)。14年の全日本選手権後に現役引退して6年。その歩みと今後について聞いたインタビューの2回目です。現状分析、今後への期待について語ってくれました。【取材・構成=阿部健吾】

<生活圏内にリンクがあること>

-第1回では、学術の道へ進んだ理由、フィギュアスケートにおける芸術性について答えていただきました。今回は現在のフィギュア界をどのように捉えているかをお聞きします。

2002年以降、現在に至るまで05年をのぞき、全ての年で日本人が世界選手権で表彰台に上り、かつ五輪でもメダルを取っています。これは驚くべきことです。だからこそ、マスメディアで大きく取り上げられ、産業としても経済的に潤ってきたと思います。

例えば、日本スケート連盟の1年間の経常収益額は、オリンピック競技を統括するすべての競技団体の中でもトップクラスです。ともすれば、メジャースポーツを脅かすくらいの経済力を持っている。私も出場しましたが、14年の世界選手権(埼玉)での収益規模は、日本のほとんどの国内競技団体の年間収益より高い。

それだけ経済的に潤うのは良いことだと思います。日本の選手が競技力で国際的な立場を高めていったことの表れであり、日本スケート界の努力の証しなので、本当に喜ばしいことだと思います。

しかしながら一方で、このような経済状態がいつまでも続くという保証はありません。蓄積した経済力や資金をどのようにスポーツ振興や競技の未来へ向けて使うかが、次に重要になります。例えば、1970、80年代に比べるとスケートリンクが圧倒的に減ってきている。リンクがなければ競技会は開催できませんし、そもそも選手の育成さえもできなくなります。スポーツにおいて施設は、そのスポーツ文化を支える何よりも大事なインフラなのです。

だからこそ、競技の統括組織は入場料収入や放映権料などで得られる資金をどのように活用するか、産業全体を見渡すことのできるガバナンスの視点で考えなければなりません。

-確かにリンクの減少は進んでいますね。

もちろん現在、スケートリンクの経営者は、今もスケート振興のために経営努力を続けています。しかし、厳しい現実は加速している。少し前に高橋大輔選手のNHKの特集番組を見る機会がありました。その番組で高橋選手はインタビューでこう答えていたのです。「スケートを始めたきっかけは家の近くにリンクがあったから」。実は私自身もそうなのです。生活圏内にリンクがあり、それで始めた。スケーター全員に調査すれば分かってくるはずですが、彼ら彼女らのスケートを始めた動機を聞けば、きっと「家の近くにリンクがあったから」と答えますよ。

ところがいま、スケートリンクは大都市圏内に偏在しているだけで、県内に1つもリンクがなく、レジャーでもスケート楽しめない地域があったりもします。そういう状況では、やはり次世代の選手は生まれないです。野球、サッカーがなぜ文化の域に達しているかというと、たくさん施設があって、どこに住んでいても実践できるからです。国民人口に対する施設の数の割合が非常に高い。だからこそ、メジャースポーツとしても末永く存続できるわけです。フィギュアスケートの競技者は、全国でたかだか5000人程度しかいない。百万人規模の野球、サッカーとは全然パワーが違います。

<文化の立場に立つ>

-そのような状況で、町田さんは今後、どのような立場を目指されますか?

私はプロスケーター引退時に、「ブームから文化」へと言いましたが、AS文化の振興に寄与する研究やマネジメント論を提示していきたい。ともすれば、この10年の短期的なスパンでものを書いたり言ったりするのではなく、その文化をより良く、そして末永く、未来へと継承していくためにはどうすればいいのかという観点で研究に取り組んでいきたいと考えています。白水社から出版しました『アーティスティックスポーツ研究序説』には、私がこれまで取り組んできた研究活動のすべてを詰め込みました。ASに従事するすべての方々はもとより、スポーツ科学を専攻されている研究者の方々に手に取って読んでいただきたいです。この本をAS文化の未来を考えるきっかけにしてくださればうれしく思います。

-もう滑ることはないですか?

プロスケーターとして表舞台に立つことはないでしょう。私は2018年に「フィギュアスケーター町田樹」にはけりをつけてセカンドキャリアに移行しましたので、これからも私は、100%研究者としてのアイデンティティーを持って活動していくつもりです。そして研究の成果をさまざまな形で社会に還元していきたいです。

◆町田樹(まちだ・たつき)1990年(平2)3月9日、神奈川県生まれ。3歳から千葉・松戸市のリンクで競技を始める。広島県で育ち、岡山・倉敷翠松高時代の06年に全日本ジュニア選手権で優勝。関大に進学して12年中国杯でGPシリーズ初優勝。14年ソチ五輪で5位、同3月の世界選手権で銀メダル。同年末の全日本選手権で引退後は大学院生となり、アイスショーにも出演した。プロ引退後は研究生活を送り、今春に早大大学院スポーツ科学研究科修了、博士号を取得した。