<成長2>

 盛田正明テニス基金の第4期生として03年9月、錦織圭、喜多文明、富田玄輝の3人が米IMGアカデミーに留学した。喜多は錦織の1学年上で、留学当初は実力も張り合っていた。だが2年目のある試合を境に、錦織に対し「こいつは、やばい」と感じ始めた。

 留学して1年がたったころだ。国際テニス連盟主催のジュニア大会で「絶対に勝てないと思ったジュニア世界10位ぐらいの選手に、圭は勝った」。当時の錦織は、ジュニアの世界ランクは100位以下。その時から「今まで勝てなかった同じアカデミーの選手にも勝つようになった」。

 アカデミーでは毎日のように部内戦が行われていた。ある日、錦織は最も有望株といわれていたベスター(カナダ)という選手と対戦。喜多によると「サーブが200キロ超え。ネットプレーもうまく、僕はこいつには絶対に勝てないとあきらめていた」。そのベスターに、錦織はストレートで勝った。

 錦織と喜多は04年、16歳以下男子国別対抗戦ジュニアデ杯の日本代表に選ばれた。村上武資代表監督は、14歳の錦織をNO・1に抜てきした。4月のアジア・オセアニア予選を勝ち抜き、9月の世界大会に出場。優勝候補のスペインと激突した。そこで、後に語り継がれる伝説の4時間試合を錦織は戦った。

 スペインNO・1は16歳だった。赤土での死闘は、延々とラリーが続いた。村上監督は「ベンチに帰ってくる度に、圭は死にそうな顔だった」と話す。それでもコートに戻ると、闘争本能は健在だった。最終セット9-7。村上監督は、勝った錦織を思いきり抱きしめた。

 喜多も村上監督も、錦織の将来を確信したという。喜多が「打つ球は変わってないが、ミスが格段に減った。すごすぎる」と驚けば、村上監督も「あの試合は一生忘れない。圭はまだ14歳。でも本物だと思いました」と心を震わせた。

 一方で、喜多はテニス漬けの日々に少しずつ耐えられなくなる。2年で留学を終え、日本に帰ることを決めた。時期を同じくして、もう1人の富田も帰国することになった。(つづく)