☆高橋尚子のあゆみ☆
◆世界に輝く家系
1972年(昭47)5月6日、岐阜市生まれ。家族は父良明さん、母滋子さん、兄哲朗さん。00年のノーベル化学賞に輝いた白川英樹氏とは遠い親せき(母のはとこ)にあたる。
◆不良中学生?
85年に岐阜・藍川東中で陸上部へ入部。800メートルが専門も県大会止まりだった。卒業式を途中で抜け出したこともあったという。「いい子に見られがちだけど、中学校の時はちょっと羽目を外していることもあった」。
◆全国レベルへ
88年に県岐阜商高へ進学。向上心が強く、3年時には高校総体出場も果たした。「当時は中京商が強くて、こっそりどんな練習するのか見に行ったこともある」。
◆女子大生ライフ
91年4月に大阪学院大へ入学。大阪・吹田市にある4畳1間のアパートに下宿。「休みの日はママチャリで大阪城まで行ったりしていた」。
◆ハチコ
練習の虫で大学時代は毎日、体育館の閉まる午後8時まで練習していたため「ハチコ」と呼ばれていた。白い地図を手に、走破したコースに色を塗っていくのが楽しくて関西中を走り回った。「食べすぎた日は午後11時半からでも走っていた」。
◆押しかけ入門
大学4年時の94年秋、小出監督を慕ってリクルート陸上部の合宿に押しかけ参加。同部は大卒を採用しない方針だったが、頭を下げて頼み込み“内定”を勝ち取った。
◆Qちゃん誕生
95年4月にリクルート入社。歓迎会で「オバケのQ太郎」を熱唱して「Qちゃん」のニックネームが付けられた。
◆「隣人」がメダル
入社2年目の96年アトランタ五輪で先輩の有森が銀メダルを獲得。「当時は有森さんの隣の部屋だったことが自慢だった。でも身近な人がメダルを取って『私にもやれるかな』と思った」。有森とは「両親が教職」「大学まで無名」の共通点があり「有森2世」と呼ばれていたこともあった。
◆ほろ苦デビュー
97年1月の大阪国際女子で初めての42・195キロに挑戦。「2時間25分台で優勝」を目標に挙げていたが、2時間31分32秒で7位。厳しさを痛感した。同4月に小出監督とともに積水化学へ移籍。「思ったよりきつかった。30キロあたりで足が動かなくなった」。
◆初めての世界
97年8月にアテネ世界選手権5000メートルへ出場。予選を突破し、決勝でも日本人最上位の13位に入った。同女子マラソンでは同じ積水化学の鈴木博美が金メダル。
◆驚異的初優勝
マラソン2走目の名古屋国際女子で優勝。30キロすぎでスパートして2時間25分48秒の日本最高記録(当時)をマークした。「自分でもビックリ。記録が出せてうれしい。マラソンは楽しい。監督のおかげです」。
◆アジアNO・1
98年12月のバンコク・アジア大会で金メダルを獲得。自身の持つ日本記録を4分以上短縮して、当時の世界歴代5位にあたる2時間21分47秒をマークした。「夢じゃないかと思うぐらい。中学生のころからどんな小さなメダルでも喜んでくれたおばあちゃんに、金メダルをかけてあげたい」。
◆直前欠場
99年8月のセビリア世界選手権代表に選出されたが、現地入りしてレース直前に左足腸けい靱帯(じんたい)損傷で欠場した。原因はオーバーワーク。当初は「半年間、走れなくなってもいいからゴールしたい」と出場へ執念を見せたが、周囲の説得でようやく断念した。
◆五輪切符
00年3月の名古屋国際女子を2時間22分19秒で優勝。レース1カ月前に食あたりで4日間入院するアクシデントに見舞われたが、23キロすぎにスパートして圧勝。「ようやくシドニーまでの階段ができました」。
◆五輪史上最速
00年9月のシドニー五輪で優勝。35キロ手前でスパート。陸上では日本女子史上初の金メダルをもたらした。勝ちタイムの2時間23分14秒は五輪新記録というオマケつき。「一番練習したという自信を信じて走りました。すごく楽しい、42キロでした。ありがとうございました」。
◆国民栄誉賞
00年10月30日にシドニー五輪金メダル獲得の偉業により国民栄誉賞を受賞。「この賞をバネにもっと上を目指したいです」。
◆プロランナー
01年4月にプロ宣言。CM出演などの商業活動が可能に。「サッカー選手になりたい子どもはいても、陸上選手になりたいという子どもはあまりいない。これで多くの夢を与えることができる」。
◆世界新
01年9月のベルリンマラソンで2時間19分46秒の世界最高記録(当時)で優勝。女子で初めて2時間20分の壁を破った。「自分自身のスピードの限界に挑戦できた」。
◆五輪V2ならず
アテネ五輪選考レースとなった03年11月の東京国際女子で2位。30キロ手前で失速してアレムに抜かれ、マラソン連勝は6でストップ。「応援してくれたのにすみません」。翌04年3月の代表選考会議で五輪の代表落ち。「残念ですがこれで陸上が終わったわけではない」。
◆骨折
復活を期して臨んだ04年9月の米ボルダー合宿で、右足くるぶしを骨折。翌年のヘルシンキ世界選手権へ向け「やってみないと分からない」と同3月の名古屋国際女子出場へ意欲を見せたが断念。
◆独立
05年5月9日に小出義雄氏からの独立を発表。自らが立ち上げたチームQでの再出発を決意。「不安がないといえばウソになるが、これからの人生にワクワクしている。自分の競技人生はあと2、3年。最後は断がい絶壁の環境で、自分を奮い立たせたかった」。
◆復活V
2年ぶり復帰レースとなった05年11月の東京国際女子で優勝。アテネ五輪代表を逃した同レースで復活を果たした。「オセロゲームで黒だった部分をすべて白に変えた気分。2年前はなぜ、あれほどきつかったのだろう」。
◆大惨敗
北京五輪代表選考レースとなった08年3月の名古屋国際女子で27位と大敗。9キロ付近で遅れ、2時間44分18秒のタイムも自己ワーストだった。レース後には07年8月に右ひざ半月板手術を受けたことを告白。「スタート地点に立つまでは優勝も頭に入れていた。自分でも不思議。夢かなと思います」。