日本柔道界を引っ張ってきた斉藤仁(さいとう・ひとし)氏が20日午前2時56分、大阪府東大阪市の病院で死去した。54歳だった。

 山下泰裕氏(57)はショックを隠せなかった。20日午前11時、表情を硬くして東京・文京区の全柔連に現れた同氏は「(斉藤)仁ちゃんは、最大で最高のライバル」と言った。世間的には「山下氏の陰にかくれた存在」というイメージもあるが、同世代の柔道家を誰よりも認めていたのが「世界の山下」だった。「私にとって、特別な人」とも言った。

 「思い出はいっぱいあるから」と言いながら、山下氏は力を合わせて戦ったロス五輪をあげた。「95キロ超級の試合に行く前に、私の部屋に来た。『先輩、必ず金をとってきます』と。優勝して帰ってくると真っ先に来て『これが金メダルです。(無差別級の)明日、頼みます』と言ってくれた」と、遠くを見つめた。

 203連勝のまま引退する最後の試合も、斉藤氏が相手だった。85年の全日本選手権で、3年連続の決勝対決。「彼の台頭が私の闘争心を呼び起こした。組んだ瞬間に、勝負師の直感で私を超えたと思った」。旗判定で勝利して、対戦成績を8戦全勝としたが、この試合後に引退した。重量級を託した斉藤氏がソウル五輪で優勝したことを「日本の柔道を守ってくれた」と喜んだ。

 92年バルセロナ五輪後に男子代表監督に就くと、斉藤氏にコーチを頼んだ。00年シドニー五輪後は監督のバトンを渡した。今は全柔連副会長と強化委員長、ツートップとして柔道界再建に取り組んでいた。「去年の1月に入院中の斉藤を見舞って、1時間半話した。8割は仁ちゃんの再建にかける熱い思いだった」。

 病状が悪化してからは、強化委員長を交代する案も出た。「本人に話すと『職責は投げ出せない』と言われた。『代えるなら、クビにしてくれ』と。再建にかける思いが病魔と闘う源だったのかも」と話した。柔道界のために不可欠なパートナーを失った山下氏。それでも「仁ちゃんが天国から笑顔で、安心して見ていられる柔道界を作っていきたい。見守っていてほしい」と涙をこらえて話した。