日本バレーボール協会(JVA)名誉顧問の松平康隆氏が昨年12月31日に肺気腫のため都内の病院で死去していたことが5日、分かった。81歳だった。葬儀、告別式は近親者のみですませ、後日お別れの会を開催する。松平氏は男子日本代表の監督として、速攻コンビバレーを主体とする斬新なスタイルを確立。72年ミュンヘン五輪で金メダルを獲得するとともに、積極的なメディア露出で競技の人気向上にも貢献した。その後もJVAや国際バレーボール連盟(FIVB)の要職を歴任。「やりたいことは全部できました」という最後の言葉を残し、天国へと旅立った。

 松平氏は最後までバレーボール人生を全うした。肺炎で入院したのは、昨年末の12月28日。ミュンヘン五輪代表の森田淳悟氏(現日本協会強化本部長)は「ちょっと行ってくるという感じだった」と振り返った。1月3日までの予定だったが、容体が急変して31日午後0時21分に死去。「バレーボール一筋に人生を終えられて非常に幸せでした」という言葉を残した。

 「正月の忙しい時にお手を煩わせてはいけない」という故人の遺志で、葬儀、告別式は近親者だけですませた。日本協会やミュンヘン五輪メンバーに知らされたのは4日夜。日本協会が訃報を出した5日には、都内の自宅にバレーボール関係者らが弔問に訪れた。

 座右の銘は「負けてたまるか」だった。男子コーチを務めた64年東京五輪で銅メダルを獲得したが、世間は冷たかった。金メダルの「東洋の魔女」の女子に隠れ、祝勝会にも呼ばれないほどだった。「金メダルで男子の人気を高める」の決意で、次々と新しい施策を取り入れていった。

 雑誌と提携し、選手を露出。選手をニックネームで呼んで、ファンに親近感を持たせた。女子中高生をターゲットに、公開練習も仕掛けた。テレビ放送では観客を審判の後方に集め、人気があるように演出した。「マスコミを利用できるだけ利用した」と話した。

 最も有名なのは、初のメディアミックスとして注目されたテレビ番組「ミュンヘンへの道」。企画からスポンサー探しまで行い、知名度を上げた。そして本番では番組通り金メダルを獲得。「松平一家」の松平監督は時の人となった。

 その後も、国内外の要職でバレーボールの普及と強化に努めた。テレビと協調して多額の放送権料も引き出した。並外れた行動力ゆえに時にワンマンになりすぎ、95年に持ち上がった金銭疑惑をきっかけに日本協会会長を辞任。それでも、バレーボールを愛し続けた。3年前に肺の腫瘍が見つかり闘病を続けていたが、昨年11月のW杯も車いすで見守った。

 66年に当時小学5年生だった1人息子の康昌くんを亡くした。6年後、スタンドで金メダル獲得を見守った俊江夫人の手には遺品の筆箱があった。「1位日本」の文字と大きな日の丸が書かれた筆箱が。抜群のアイデアと行動力で競技をけん引してきた「ミスター・バレーボール」はスポーツ界に大きな足跡を残し、ともに世界と戦った猫田や南、中村、そして愛息の待つ天国へ旅立った。

 ◆松平康隆(まつだいら・やすたか)1930年(昭5)1月22日、東京都生まれ。都立城南高-慶大と9人制バレーボールのセッターとして活躍。52年に日本鋼管入りし、60年まで選手、監督兼選手としてプレー。61年に6人制バレーを学ぶためにソ連留学。帰国後に男子日本代表のコーチに就任、東京五輪後の65年に同監督に就いた。68年メキシコ五輪で銀、72年ミュンヘン五輪で金メダル獲得。79年に日本バレーボール協会(JVA)専務理事となり、89~95年は会長を務める。85年にはアジアバレーボール連盟(AVC)会長、94年に国際バレーボール連盟(FIVB)副会長に就任。日本オリンピック委員会(JOC)でも選手強化本部長、副会長を歴任するなどバレーボール、スポーツ界発展に尽力した。88年藍綬褒章、04年旭日中綬章。00年にはFIVBから20世紀最優秀監督賞に選ばれた。