東大阪市の花園ラグビー場は、1929年(昭4)の開場以来、第2次世界大戦直後は連合国軍に接収されながらも90年間、ラグビー界の発展に尽くしてきた。冬には全国高校大会を開催。ワールドカップ(W杯)日本大会でも4試合が予定される、ラガーマン憧れの場所が歩んだ道をたどった。

91年まで営業していた花園第1グラウンド北側のゴルフショット場(近鉄レジャーサービス株式会社提供)
91年まで営業していた花園第1グラウンド北側のゴルフショット場(近鉄レジャーサービス株式会社提供)

「花園育ちが、帰ってくる」。W杯を前に日本代表が戦うパシフィック・ネーションズ杯トンガ戦(8月3日)が迫り、近鉄東花園駅から続く道を告知ポスターが彩っている。メイン写真は札幌山の手高出身のフランカー、リーチ・マイケル主将(30=東芝)。その周りを福岡高OBのWTB福岡堅樹(26)や、新潟工高出身のプロップ稲垣啓太(29=ともにパナソニック)ら4選手が囲んでいる。

全員が大阪出身ではないが、63年の全国高校大会初開催から半世紀以上にわたり、花園は全ラガーマンの憧れの場所であり続けてきた。鹿児島実高2年で念願の花園出場を果たしたCTB中村亮士(28=サントリー)は「とりあえず人の数がすごかった。今まで経験したことがない数で興奮した。『やっと来られた』という感じで、ワクワクした」と11年前を思い返した。

聖地の1年は全国高校大会を軸に動く。天然芝の長さは大会で使われる第1~3グラウンド共通で39ミリ。サッカー専用スタジアムで多い20ミリ台に比べ、花園は長い。12月のほとんどが芝の養生になるのも特徴だ。長年トップリーグを沸かせてきた創部90年の近鉄も、高校生の晴れ舞台を尊重し、師走は第2グラウンドでの練習を避ける。全面を覆ったシートをはがすのは大会開幕4日前。芝を管理する山本和仁さん(54)はその瞬間を「毎年のことだけれどきれい。39ミリはずっと受け継がれている数字。だから、きれいな緑になる。これが花園のベストな長さ」とずっと見つめてきた。

花園ラグビー場の芝の管理を行う近鉄レジャーサービス株式会社の山本和仁さん
花園ラグビー場の芝の管理を行う近鉄レジャーサービス株式会社の山本和仁さん

花園の開場は1929年(昭4)。前年10月、奈良の橿原神宮参拝のために電車移動していた秩父宮殿下が「沿線にはずいぶん空き地が多いじゃないか。ここにラグビー専用競技場を作ったらどうか」と提案されたことがきっかけで、日本最初のラグビー専用グラウンドが生まれた。第2次世界大戦末期は食糧増産の農場となり、戦後は連合国軍に接収された過去もある。

49年6月に接収が解除されると、年々施設を増強。53年には第1グラウンド内北側にゴルフショット場(打ちっ放し)が設けられ、翌54年にはラグビー場を囲うように9ホールのショートコースが誕生した。営業時間は午前9時~午後8時で、ラグビーの試合開催時以外は無休。当時受付を担当した山本さんは「第2グラウンドのコートにだけかからないように、グリーンやバンカーもあった」。コースは98年まで営業。聖地は地域住民にも愛された。

17年2月からはW杯に向けて総工費72億6000万円の改修工事が行われ、照明設備を備えたスタジアムが各国の選手、ファンを待つ。開幕1年前の18年9月20日、改修後のスタンドに立った東大阪市の野田義和市長(62)は「歴史の重みと、未来が見える。W杯は一生に1度ですが、生涯付き合っていける花園を目指したい」と力強く言い切った。花園だけにしかない魅力と価値は、これからも変わらない。【松本航】