西の「聖地」花園に対して、東には秩父宮ラグビー場がある。日本代表をはじめ、大学、社会人など数々のドラマを生み、70年以上も日本ラグビーの歴史とともに歩んできた。今回のワールドカップ(W杯)では試合こそ行われないが、出場チームのトレーニングなどで使われる予定。来年の東京オリンピック(五輪)後には建て替えられ、新たな「聖地」として生まれ変わる。

毎週末、最寄りの東京メトロ外苑前駅から秩父宮ラグビー場に続く歩道にラグビーファンの列ができる。サンウルブズのユニホームを着たサポーター、トップリーグのチームカラーを着たファン、大学の小旗を手にした学生-。年間100もの公式戦が行われる「聖地」は、日本ラグビーの歴史そのものでもある。

戦前にラグビーの試合が行われていた明治神宮競技場が終戦によって米軍に接収されたのが誕生のきっかけだった。東京大空襲によって焼失した女子学習院の跡地に1945年(昭20)に「東京ラグビー場」として誕生。53年に日本協会名誉総裁の故秩父宮雍仁殿下をしのび「秩父宮ラグビー場」と名称変更された。

47年10月、東京ラグビー場(現秩父宮ラグビー場)の工事を視察する秩父宮雍仁親王(左端)
47年10月、東京ラグビー場(現秩父宮ラグビー場)の工事を視察する秩父宮雍仁親王(左端)

70年代以降、早明戦や日本選手権などは収容人員の関係で国立競技場も使用されたが、秩父宮はラグビーファンにとって特別な場所であり続けた。肉弾戦の音が届く専用競技場。何よりもラグビーファミリーが造った「ラグビーだけ」(サッカーなどの開催実績はあるが)の競技場だった。

伝説がある。71年9月、日本代表がイングランド代表と対戦した。母国との初めてのテストマッチに観客が押し寄せ、スタンドに収容できずピッチレベルまでファンを入れた。大熱戦の末に3-6で惜敗したが、興奮したファンが試合後の代表選手に駆け寄った。

WTBとして活躍した坂田好弘氏(76)は「タッチラインの少し外にロープが張られ、そこまでお客さんがいた。試合後はグラウンド一面満員(笑い)。歴史的な試合だと思う」と振り返り「そういう歴史をつくってきたのが秩父宮。日本ラグビー界の発展に、大阪の花園とともにすごく貢献している」と懐かしんだ。

87年5月には宿沢広朗監督、平尾誠二主将の日本代表がスコットランド代表から大金星。91年1月の社会人選手権決勝では神戸製鋼のWTBウィリアムスが終了間際の劇的なトライで三洋電機に逆転勝ちした。秩父宮のスタンドが歓声で揺れた名勝負は数多い。

同じ敷地内には日本協会と関東協会の事務局。試合が行われるだけでなく、日本ラグビーの総本山でもある。さらに、秩父宮がラグビー関係者にとって「特別な場所」なのは、その誕生に秘密がある。建設地を決めたのも、建設資金を集めたのも、すべて大学ラグビーのOBたち。「ラグビー人がラグビーのために造ったラグビー場」だから「真の聖地」になるのだ。

東京五輪後、神宮外苑は大幅に生まれ変わる。21年には神宮第2球場が取り壊され、その跡地にラグビー場を新築。現在の秩父宮跡地には神宮球場が新築される。屋根付きの多目的スタジアムになるが、ラグビーが中心であることと「秩父宮」の名称は変わらない予定。今大会後「東の聖地」は「レガシー」になる。【荻島弘一】