3大会連続のW杯となったベテランが、歴史を塗り替えたチームを支えた。

恥骨炎の影響が残るも、強烈なリーダーシップでチームをまとめたフランカーのリーチ・マイケル(31)。攻守に衰え知らずの存在感を放ったフッカー堀江翔太(33)。経験を生かし、控えからチームを勝利に導いたSH田中史朗(34)。この10年、日本代表の躍進を支え、計206キャップを誇る3人にとって、桜のジャージー、W杯とは何なのか-。日本ラグビーの屋台骨をつくりあげたベテランの、熱い思いを追った。

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11年W杯ニュージーランド(NZ)大会。母国NZとの第2戦後のピッチで天を見上げたリーチは「キャリアで一番」と語る強烈な悔しさに全身で耐えていた。生まれ育った地での大舞台。幼い頃に憧れたオールブラックスを相手に、チャンスを与えてくれた桜のジャージーを背負って戦う。感情が高ぶる理由は1つではなかった。だが、チームは5日後のトンガ戦での勝利を優先し、主力を温存。7-83で大敗した。

ロッカールームでNZ選手とすれ違うと、行き場のない思いに心は荒れた。「強烈に恥ずかしかった。あんな思いをしたことは1度もない。負けたことも悔しいし、コーチ陣の判断も。勝てないと決めつけて、試合をした。その結果、トンガにも負けた。恥ずかしくてたまらなかった」。

日本代表として戦う意味。1試合にかける執念-。初めてのW杯で心の底に宿った思いは「日本を世界に認めさせる」というモチベーションに変わった。個人として世界に認められるようになっても「日本がばかにされれば、ナイフでえぐられるような気分になった」と、それが変わることはなかった。自身3度目のW杯を前に、ミーティングで11年の苦い経験を伝え、言った。「W杯で簡単な試合なんて1つもないんだ」。

3月に負った恥骨炎の影響で、開幕から本調子ではなかった。だが、先頭で戦い続けてきたその背中には、チームを1つにする力があった。「リーチさんのために」。周りにはそう口をそろえる仲間がいた。チームの代名詞である「自主性」が芽生えていた。闘将の情熱が、日本を変えた。

日本ラグビーが世界に認められた15年W杯。その興奮の余韻が残る翌年、堀江はどん底にいた。スーパーラグビーの日本チーム、サンウルブズが誕生。W杯で多くの選手が燃え尽き、誰もが避けた初代主将を、堀江は海外からのオファーを断り、請け負った。古傷の首の痛み、蓄積した疲労。それでも「誰かがやらないと、進まなかった」。開幕から連敗が続き、心身ともに限界は超えた。救ってくれたのは信頼を寄せる関係者の一言だった。「翔太、1日、引退しよう」-。

「昔の人間だからラグビーを考えないと怖い」。そんな姿勢が、自身を追い込んでいることに気付いた。頼ったのは、幼なじみの妻友加里さんだった。昼間からお酒を飲み、2人っきりでカラオケに行った。「頭がふっと軽くなった」。重責をまっとうしたシーズンを最後に主将の座を退くと、代名詞の自由なプレーがよみがえっていった。

参戦から3シーズン、サンウルブズが19年W杯に向けた日本代表を強くした。その土台をつくったのは堀江だった。「汚れ仕事」に、自ら手を挙げた姿をみんなが見ていた。首脳陣と選手の間に溝があった17年、防御に関する考えを、選手を代表してジョセフHCに伝えにいった。「代表を外れる覚悟。干される1歩手前だった」と振り返るが、「自分らみたいなおっさんより、若いやつが、少しでも良い状態でプレーできればいい」。それがベテランとなり、経験を積み重ねてきた堀江の覚悟だった。

11年W杯から帰国した田中は、自宅で何げなくつけたテレビの前から動けなかった。「ラグビー日本代表は敗れました」-。わずか7秒の放送に、急に不安が襲ってきた。「このままだと日本ラグビーが終わってしまう」。ただの海外遠征のような気持ちでW杯に臨んだ自身を悔い、「日本ラグビーのため」の戦いが始まった。堀江とともに13年に日本人で初めて世界最高峰リーグ、スーパーラグビーに挑戦。日本代表ではチームメートとの摩擦を生んでも、厳しい言葉を投げかけ続けた。矛先は時に、日本協会にも向いた。国内人気に火を付けた15年W杯後のトップリーグ開幕戦。協会の不手際で観客席が埋まらない状況に、烈火のごとく怒りをあらわにした。

日本代表の価値を上げるため、誰よりもファンを大切にしてきた。サインは子どもでも読めるようにひらがなで書き、毎年300個のボールを自費で購入。普及イベントで子どもたちに配り続けた。11年のつぐないのような思いは、当落線上とみられた3度目のW杯につながった。代表発表時、自身の名前が呼ばれると自然と涙があふれた。同時に、メンバーから漏れ、涙する選手を見て、痛感した。「みんながどうしても選ばれたい日本代表になった」。それがうれしかった。

08年5月に田中が初キャップを獲得し、同年11月にリーチが、09年11月に堀江が初めて桜のジャージーをまとった。3人が体を張り続けた10年で、日本ラグビーは大きく変わった。史上初のベスト8進出。歴史的な試合後でもリーチは冷静に言葉を選んだ。「台風で苦しんでいる人がたくさんいる。勇気を与えるマインドで、我慢して最後まで走って立ち上がってタックルにいこうと思った」。走り続けてきた3人にしか見えない景色が、そこにはあった。【奥山将志】