日本代表WTB福岡堅樹(27=パナソニック)が、15人制日本代表のラストマッチを終えた。4試合連続トライこそならなかったが、キックの処理やしつこい防御で存在感を示した。

今後は7人制代表での20年東京オリンピック(五輪)出場を目指し、幼少期から夢見てきた医師の道へ進む。今大会4トライを挙げた日本のエースはすがすがしい表情で、次のステップへと足を踏み出した。

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80分間続いた熱気が静まると、秋風のように心地よい拍手が場内を包んだ。ノーサイドの笛を聞いて数歩歩き、福岡はピッチ上で立ち止まった。26秒間、動くことなく、誰とも話さずに余韻を感じた。「終わったな…」。歩み寄ってきたSO松田と握手し、同学年のWTBコンビとして躍動し続けた松島と抱き合った。

4万8831人と共有した君が代斉唱。右手で左胸を押さえ、そっと目を閉じた。スタジアムの振動をかみしめるように、少しだけ顔を上げて歌った。前半8分、左サイドでボールを手にすると、内、外のステップで相手を置き去りにした。大会前に痛め、開幕戦欠場につながった右ふくらはぎをフル稼働させて40メートルほど前進。相手の高いキックには175センチの小さな体を投げ出し、死ぬ気でつかみ取った。敗戦後の取材エリアで見せる表情が、いつも以上にすがすがしかった。

「15人制の代表にも、思い入れが強かった。ここが最後だからやってこられた。後悔はありません」

この舞台に立っていることが、運命だった。祖父が内科医、父が歯科医。幼少期から自然と医師の夢を抱いてきたが、福岡高卒業後に1浪し、受験した筑波大医学群に不合格。「受かっていたら間違いなくここ(代表)にいない。二兎(にと)を追わず、一兎ずつ頑張ろう」。同大学の情報学群へ進んだことが、結果的にラグビーを極める道へといざなった。大敗したスコットランド戦だけに出場した前回W杯では、後悔と未練が残った。南アフリカ戦の歴史的勝利を喜ぶ仲間を見て「自分のプレーは貢献できていない」と人知れず肩を落とした。

だからこそ、世界最高峰の舞台で輝きたかった。ジョセフ体制の3年間、後悔がないように進んできた。一瞬で相手を置き去りにする加速を磨き、スーパーラグビー「サンウルブズ」で大柄な相手に当たり負けない強さを身につけた。その裏で、午後8時からの1時間は決まって数学、物理、化学、英語の教材に向き合った。海外遠征では映像の授業のために、ホテルのネット環境を確認した。「周りに一切、勉強の話はしない。勉強の時は孤独」。突き動かすのは、自分にしか分からない強い心だった。

「『前例がないから』と諦める人がいっぱいいる。頑張って、その道を切り開いていく、自分がそんな存在になれたらいいんです」

体の状態が100%ではなかった、1次リーグ第2戦のアイルランド戦。仲間の思いを背負い、左隅に小さくできたスペースをこじあけた。第3戦サモア戦。勝負の命運を握る終盤に、右大外を駆け抜けた。願い続けた8強をつかんだスコットランド戦。誰にもまねることのできないスピードで、世界を驚かせた。まだ、その姿を見ていたい-。そんな日本中のファンの思いに後ろ髪を引かれながらも、20年東京五輪、その先の医師を目指す志はぶれなかった。

「日本として目標を達成できて、胸を張れます。世界で戦える自信を、今回のW杯で付けることができた。セブンズでも『ONE TEAM』を作りたい」

誰もが1カ月間の余韻に浸る中で、この男だけはさらりと言い切った。旅は終わらない。【松本航】

◆福岡堅樹(ふくおか・けんき)1992年(平4)9月7日、福岡県古賀市生まれ。5歳でラグビーを始め、福岡高3年時に全国高校大会(花園)出場。医者志望で複数の大学からの誘いを断り、1浪後筑波大(情報学群)に進学。16年からパナソニック。37キャップ。175センチ、83キロ。