史上初の高校生アマ横綱となった、元前頭久島海の田子ノ浦親方(本名・久嶋啓太)が急死した。13日に都内の部屋で倒れ、搬送先の病院で亡くなった。46歳だった。死因は不明で、事件性はないとみられる。03年には急性心筋梗塞で倒れたことがあったが、この日朝も弟子を連れて出稽古していた。高校時代から合計40タイトルを獲得し、鳴り物入りでプロ入りしたが、現役時代は三役になれなかった。昨年名古屋場所で部屋初の関取碧山が誕生したばかり。あまりにも早すぎる死となった。

 田子ノ浦親方はこの日夕方、部屋で家族と過ごしていたところ、突然倒れたという。午後4時45分ごろ、警視庁にも通報された。墨田区内の病院へ搬送時には心肺停止の状態だった。

 午後5時すぎから部屋で待機していた力士、出羽海一門の親方衆らが次々に駆けつけた。取るものも取りあえずの状況で、ジャージー姿の親方もいた。7時すぎになって境川親方(元小結両国)が急死したことを明らかにした。

 「あした朝に検視するまで遺体に触れることができない。遺体は霊安室でおかみさんが寄り添っている。突然のこと。花相撲でも変わったところはなかった」。日大、出羽海部屋で先輩の親方が、家族に代わって説明した。倒れた際に吐血したとも、倒れてケガして血を流したともいわれる。

 この朝にはいつも通りに春日野部屋などへ、春場所前最後の出稽古だった。田子ノ浦親方も碧山らに付き添って指導していた。小まめにブログを更新することで知られるが、最後の更新は9日。「新弟子入門」とのタイトルで、大分県の中学生が3月の春場所入門するとつづられている。新弟子検査は3月3日。春場所へ順調に準備を進めている最中だった。

 00年に出羽海部屋から独立し、田子ノ浦部屋を再興した。その3年後に心筋梗塞で倒れたがすぐに復帰した。その後は健康に気を使い、最高201キロあった体重を80キロ以上減量したことも。境川親方は「以前に心臓をやったが、それと関係があるかは分からない」と、沈痛な面持ちで話した。

 高校時代から「末は横綱」と言われた逸材だった。高3で並みいる学生、社会人をなぎ倒し、アマ横綱に輝いた。18歳4カ月の優勝は、近大3年の長岡(現高砂親方の元大関朝潮)を2歳7カ月更新。日大でもタイトルを獲得し続けて出羽海部屋入りも、脇の甘さなどもあって、ついに三役にはなれなかった。独立後も苦難続きで、04年にホープの三段目力士、08年には25歳の呼び出しを亡くしていた。

 独立12年目の昨年、碧山が待望の部屋初の関取となった。まだ46歳で、これからという時だった。部屋に戻ったおかみさんの元へ、再び親方衆も駆けつけた。春日野部屋の清見潟親方(元前頭栃栄)は「また大阪で会おうとおっしゃっていたのに…」と声を詰まらせた。昨年の元横綱隆の里の鳴戸親方に続く、突然の死だった。

 ◆田子ノ浦啓人(たごのうら・けいひと)本名・久嶋啓太。1965年(昭40)8月6日、和歌山県新宮市生まれ。父啓太夫さんの影響で4歳から相撲を始め、新宮高入学時で186センチ、160キロあり、3年連続高校横綱となる。83年全日本選手権では史上初めて高校生でアマ横綱に輝いた。高校で12タイトルを獲得後、日大に進学。4年間で今も最多の28タイトルを獲得した。出羽海部屋に入門し、88年初場所幕下付け出しで初土俵。89年春場所の新十両を機に本名から久島海に改名。同年名古屋場所で新入幕。得意は右四つ、寄り、小手投げ。金星2個、敢闘賞2回獲得も、最高位は東前頭筆頭。幕下に陥落した98年九州場所後に引退。準年寄をへて、99年11月に12代目として年寄田子ノ浦を襲名。00年2月に出羽海部屋から独立し、田子ノ浦部屋を再興。06年から審判委員を務めていた。

 ◆部屋の今後

 田子ノ浦部屋にはブルガリア出身の前頭碧山に、幕下以下を含め8力士がいる。部屋付き親方がいないため、現役を続けるには他の部屋へ移籍することになる。最有力は、田子ノ浦親方が現役時代に所属していた出羽海部屋。部屋の力士が今も出稽古に行くなど、交流も深い。田子ノ浦親方が日大入学時に4年で主将だった元小結両国の境川部屋、同郷で親交があり、出稽古先でもある元関脇栃乃和歌の春日野部屋も候補になる。田子ノ浦部屋は江戸時代以来の再興で、00年独立時のさいたま市から、03年に現在の江東区に移転。しこ名には久嶋の久か、和歌山の海をイメージした碧がつく。