元大関魁傑で放駒親方となり、日本相撲協会前理事長だった西森輝門(にしもり・てるゆき)氏が急死した。18日午後に東京・西東京市でゴルフ練習中に倒れ、午後3時21分に都内の病院で心不全のため亡くなった。66歳だった。日大柔道部から転向して大関に2度昇進も陥落。横綱大乃国を育てたが、10年に急きょ理事長に就任し、八百長など不祥事の対応に奔走した。昨年定年したが、波乱の人生は突然の幕となってしまった。

 両国国技館が今場所4度目の大入りで沸くころ、西森氏の突然の訃報が伝わった。一番弟子だった芝田山親方(元横綱大乃国)に親族から知らせが届いた。

 昨年2月に65歳定年を迎え、のんびり過ごしていた。芝田山親方は打ち出し後に旧放駒部屋に向かった。「場所前に電話をもらったが元気だった。偉大な師匠。あと20、30年生きると思っていたのに」と話すのが精いっぱいだった。

 西森氏は昼食後、一番の趣味だったゴルフの練習に長男、孫と出掛けた。午後2時10分ごろ「気分が悪い」としゃがみ込み、心肺停止となった。搬送された小平市の病院で死亡が確認された。遺体は検視のために田無警察署に安置された。糖尿病で定年後も相撲診療所に通っていた。

 最後まで波瀾(はらん)万丈だった。特待生で日大柔道部入り。将来の五輪代表と目されたが、練習場の隣にある花籠部屋から勧誘された。1年中退で渋々入門し、なじめず脱走もしたが、3年あまりで新十両昇進。弟弟子の輪島や同門の貴ノ花の陰で低迷も、74年九州場所初優勝で勢いづき、75年初場所後、大関昇進した。

 褐色の肌に「黒いダイヤ」や「快傑黒頭巾」と呼ばれ、女性に人気もあった。しかし、大関は5場所で陥落。平幕まで落ちながらも15日制後では唯一再昇進したが、また4場所で陥落した。肘などの故障が原因だが、序ノ口から通算937回の土俵は1度も休まず。「休場は試合放棄だ」との名言を残す、誠実な土俵態度ときまじめな性格だった。

 現役引退後は放駒部屋として独立した。85年には当時の花籠親方(元横綱輪島)が年寄名跡担保で廃業となり、力士らを引き取って一気に大部屋となった。その2年後の87年秋場所後には、大乃国を62代横綱に育て上げた。

 06年に理事となったが、10年には火中のクリを拾うことになった。暴力団や野球賭博問題の中、当時の武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)が辞任し、その後を受けて理事長に就任。さらに八百長問題が勃発したが「クリーン魁傑」と呼ばれた真面目な性格で事態収拾に当たった。

 厳しい処分に抵抗もあった一方、組織改革にも取り組み、公益法人化では年寄名跡の協会管理を打ち出した。しかし、昨年には親方衆の反発を買う中で定年となった。相撲人気が回復する中、大不祥事を乗り切った角界随一とも言える堅物の魁傑が逝った。