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「あのメダルは今」
1つの出会いが、その人間の夢をはぐくんだ。その夢に導かれた先には、日本体操史上初の個人総合金メダルがあった。1964年東京五輪。遠藤幸雄さん(63=日本体操協会副会長)が快挙をもたらした。「でも、小野さんのことを思うと……」。話術にたけ、終始笑顔で話していた遠藤さんが一瞬だけ視線を落とした。 運命の出会いはヘルシンキ五輪の52年、遠藤さんが秋田工1年の時。市内で郷土出身体操選手による五輪壮行競技会が行われ、華麗な演技を見せた1人が「体操ニッポン」を支えた小野喬さんだった。9歳で母を亡くし、中1の冬から保育院に預けられていた遠藤さんは、小野さんに魅了された。 幼少時代は「どじょう」のあだ名で走るのが得意。蹴上がりさえできなかった遠藤さんが先生の勧めで体操部に入部したのが中2。市内大会で表彰台に何度も上がったが「将来は技術を身につけ電気技師になる」はずだった。だが高校総体や国体でも表彰台に上がるたびに、小野さんの姿が脳裏に焼きついて離れない。東京教育大(現筑波大)進学時に「五輪」を現実のものとしてとらえた。 難産の末に勝ち得た金メダルだった。高得点を重ねて迎えた最後の演技は「6種目中最も苦手」というあん馬。案の定、2回のミスを犯した。「9・00ぐらいかと思って死んだ母に手を合わせて祈ってましたよ」と遠藤さん。ソ連の抗議は5分も続いた。結果は9・10。2位とは「因縁」の0・05のきん差だった。前々回メルボルン、前回ローマとも個人総合銀メダルを獲得した小野さんの、金との差はともに0・05。ケガを押して東京大会のチームを引っ張った小野さんの胸中を察すると「もろ手を上げてバンザイ、などという気にはなれなかったですね」。翌日、女子バレー金の情報が入り沸き返った体操会場で「これからやる遠藤も日本人だ」の思いを込めて勝ち得た種目別・平行棒の金獲得の時、初めてうれし涙を流した。 金メダル以上の家宝が、遠藤さんにはある。1896年の第1回アテネ五輪種目別・鉄棒優勝者、故ヘルマン・ワインゲルトナーさん(ドイツ)から子息を通じて贈られた五輪の初代金メダル。そして東京五輪後「おめでとう」の声とともに手渡されたトロフィー。エースの座を遠藤さんに託した小野さんが、オリジナルでつくった、世界で1つしかない代物だった。【五輪取材班】
(2000年3月24日付) |