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「あのメダルは今」
メダリストへの道は、今も昔も困難が伴う。1952年(昭27)ヘルシンキ五輪の水泳800メートルリレーに出場した浜口喜博さん(73)は、銀メダルにたどり着くまで、ドタバタ劇が絶えなかった。6尺ふんどしの上に布のパンツをはいて泳ぐことが当たり前だった時代、トラブルをバネにたくましく世界と戦った。 事の始まりは、個人種目の100メートル予選。出番を待つ浜口さんは、一瞬、目を疑った。次の出場選手の顔ぶれを見ると、自分のレースらしい。予定されたコースも1人分だけぽっかり空いている。すぐさま清川ヘッドコーチがスターターに確認すると、悪い予感は見事的中していた。ウオーミングアップをする間もなく、スタート台まで走った。 「すぐに、よーいどん。危なく失格するところでした。通常の進行より40分は早まっていたはずです。今でもなんでそうなったのか分かりませんね」。頭が混乱しながらのスタートだったが、同レース1位で準決勝進出。逆境に強いところを見せた。 アクシデントはこれだけで終わらなかった。決勝進出者8人を決める準決勝で、問題が起きた。タイム順に上位6人はすんなり決まったが、残り2枠でもめた。浜口さんより後着したはずのエミネン(フランス)がタイムで上回ってしまう矛盾が起きた。手動計時が招いた珍現象だった。違う組ながら浜口さんと同タイムの後藤暢さんを含めた3人のうち、上位2人を決めなくてはならなくなった。 協議の末、3人で再レースを行うことになった。「後藤なら1発大逆転もある。あいつはどうしても残したかったし、自分もできれば残りたかった」。結果は、タッチの差で敗戦。「負けたはずのエミネンが勝ち残ってすっきりしなかった。その夜は腹が立って眠れませんでした」。 この怒りが、その後の800メートルリレー(鈴木弘、浜口、後藤暢、谷川禎次郎)で生かされることになった。「もう最後だからやけくそ」という泳ぎで、自己ベストを2秒も更新。銀メダルの原動力となった。 浜口さんは現在、日本オリンピックメダリストクラブの会長を務めている。1994年(平6)に、二十数年間も休止していた会を再発足させた。会費もない親ぼく団体だが、メダリストの名誉を保つ役割を担っている。【五輪取材班】
(2000年3月25日付) |