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「あのメダルは今」
自らが勝ち得たメダルは、絶対にだれにも見せない。1952年ヘルシンキ五輪競泳男子1500メートル自由形で、橋爪四郎さん(71)は銀メダルを獲得した。しかしそのメダルは、東京都大田区の自宅から外に出さない。かたくなな態度の陰には、日大水泳部時代の同期、古橋広之進・日本水泳連盟会長(71)への友情があった。 「古橋がいなかったら、僕は平凡な選手だった。彼に感謝しているし、彼は五輪でメダルをとっていないから、僕は自分のメダルも表に出したくない」。46年夏、和歌山での水泳講習会に参加した時に、コーチ役の古橋氏から「一緒にやらないか」と誘いを受けた。終戦直後は靴下工場に勤めており、将来は自分の会社を設立するつもりだった。その年には、戦争から引き揚げてきた学生のために9月入学の制度があり、上京することが決まった。 183センチの身長と長い手足を生かして、スピードを磨いた。同じ自由形の古橋氏の後を追いかけるように泳ぎ込み、11回も世界記録を更新した。しかし、世界新記録達成と同時に、日本一に輝いたことはなかった。11回とも、古橋氏に続く2位だった。「世界記録を33回更新した古橋の実力は抜きんでていたし、いつも彼についていくことばかり考えていた。それが五輪では、初めて逃げるレースを体験した」。その古橋さんはヘルシンキ五輪の2年前に赤痢で体調を崩し本来の泳力を失った。得意だった1500メートルでは五輪出場権さえ得られず、400メートルも五輪決勝で8位惨敗。1500メートルに出場した橋爪さんは、追いかける目標がなく、泳ぎのリズムをつかめなかった。五輪前の練習過多で疲労もたまっていた。 優勝のF・コンノ(米国)に約11秒遅れる18分41秒4で2位。古橋氏に続く2位に慣れていたため、「まあいいか」という気持ちもあったという。しかし、古橋さんの無念を思うと心が痛んだ。「古橋は国内でも海外でも勝ち続けて、国民の期待を背負いながら、五輪というひのき舞台で最下位の8位。200メートルすぎで、優勝争いから脱落していた。きっと泣きながら泳いでいたんじゃないかな」。銀メダルを人に見せびらかしたくない。メダルを封印することが、古橋氏に対する礼儀だった。「一緒に泳いできた仲間に対する仁義を、なくしたくない。『どう、元気?』と言い合える関係でいたいんですよ」。【五輪取材班】
(2000年3月6日付) |