Sydney2000 cm
  ▼シドニー五輪メーン ▼競技メニュー ■日程 ■連載メニュー

20世紀 有終の祭典 五輪を語る 岩崎恭子<2>

家族といる時だけが平穏だった

 バルセロナ五輪で金直後の92年(平4)秋、小田急線新宿駅発の特急あさぎり号に乗った岩崎は、終着の沼津駅のホームに降り立った。その直後「恭子ちゃーん!」「恭子バンザーイ!」という大歓声につつまれた。大フィーバーに恐怖さえ感じながら、がい旋パレードに参加した。14歳の金メダリストは、スーパースターになっていた自分に戸惑った。

 岩崎 その日は家(沼津市)に帰れなかったんです。伊豆長岡の温泉に行っていなさいって言われて。1週間ぐらいしてから帰れたんですけど、家の裏口から入りました。何で自分の家なのに……。中学の時は、いつもだれかに行動を監視されているような感じでした。

 自宅の前には熱烈なファンが待ち伏せし、いたずら電話が家族の生活を乱した。夜遅くに帰宅したり、学校の成績が落ちたりしただけで週刊誌に書き立てられた。練習再開後、小規模の大会で平凡なタイムに終わっても、大量の報道陣に囲まれた。

 岩崎 「そっとしておいてよ! 成績のいい人を取材してよ!」と叫びたかった。マスコミの人からは逃げていました。「メダルを取らなきゃ良かった」と何度も思いました。でも高校に入る時にはふっ切れました。「みんな勝手に言っていればいいや」って。思い詰めたら生きていけない。死のうと思ったことはないですけどね。何を言われても、今は何とも思わない。分かってくれる人は必ずいますから。

 岩崎が救われたのは、家族と一緒にいる時だった。両親は、岩崎がメダルを取る前も取った後も、水泳について何の干渉もしなかった。3姉妹はみんな水泳をしていたが、家庭で水泳が話題に上ることはほとんどなかった。バルセロナ五輪前の平穏な空間が、自宅の中にあった。金メダルは金庫に入れられ、デザインのいいトロフィーだけが応接間に飾られた。五輪の話は、来客の時にするぐらいだった。

 岩崎 両親は分かっていたんでしょうね。干渉すれば、私は水泳を投げ出して反発して、悪くなっていくだろうと。親が口出しすると、ダメな時、親のせいにしてしまう。人に言われてやるのは、好きじゃない。アトランタ五輪を目指す時も「それでいいと思うなら」と言われただけ。押し付けはなかった。

 五輪2大会連続金メダルを期待する周囲の熱狂をかわしながら、岩崎は2度目の大舞台を迎えた。【五輪取材班】

(2000年1月13日付)

 

nikkansports.comに掲載の記事・写真・カット等の転載を禁じます。
すべての著作権は日刊スポーツ新聞社に帰属します。
Copyright2000,Nikkan Sports News.