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20世紀 有終の祭典 新種目に迫る ケイリン(1)
「身内の壁」乗り越え競輪を世界に

 苦節52年。競輪関係者の夢が、ついに実現する。シドニーから五輪正式種目の仲間入りを果たした「ケイリン」。1948年(昭23)に競輪として産声を上げ、80年に世界選手権の正式種目へ。日本自転車競技連盟の花岡宗助名誉会長(75)らの尽力で五輪にたどり着いたが、その道のりにはまず「身内の壁」があった。柔道に次いで2つ目となる日本生まれの五輪競技種目に迫る。

 花岡氏は世界中を駆け回って「競輪」を「ケイリン」に発展させた功労者のひとり。日本自転車振興会の副会長、会長を務めていた91年(平3)からの4年間、退任後の1年余り、五輪を夢見て全精力を傾けた。

 まず、身内の壁に突き当たった。自転車の本場欧州ではロードレースが主流。その意識を変えさせるところからスタートした。

 92年、世界選手権が行われていたスペイン・バレンシアで、国際自転車競技連盟(UCI)のフェアブルンゲン会長にまず申し入れた。五輪加入を訴えるには、UCIをその気にさせなくてはならなかった。しかし、いい返事はもらえなかった。「五輪に入るどころか、世界選手権からも外れるかもしれなかった。その4年後のアトランタでは、トラック種目をやめるべきではないかと言われて、UCIも慌てていた」(花岡氏)。

 世界選手権では80年からケイリンが正式種目となっていたが、欧州ではなじみが薄かった。海外で日常的に行われていなかったケイリンは、彼らにとって年に1度の「珍しい種目」程度の認識でしかなかった。審判は判定に不慣れで、UCIと日本でルールが異なることもネックだった。スプリントで10連覇を達成した中野浩一氏(44=日刊スポーツ評論家)の人気、知名度は抜群だったが、世界選手権以外では本業の競輪があるため、欧州にもなかなか出向けなかった。

 それならば、と花岡氏は動いた。欧州の審判を日本に呼び、競輪を見せてルール講習会を開いた。トラック種目のW杯を新設し、日本の選手を積極的に参加させた。93〜94年にかけて、欧米各国の国内大会でもケイリンが正式に行われるようになった。世界で人気がじわじわと広がった。各国の理解が得られ、ルールもUCIが日本に合わせて改正した。

 94年のW杯から大会の最終種目に。ここで五輪への道が見えてきた。UCIの意思は1つ になった。関係者の力が実を結ぼうとしていた。【五輪取材班】

 ◆ケイリン トラック内の一定距離を6〜8人がペーサーの後ろについて所定周回数を回った後、スプリントを行って順位を争う。周回数はシドニー五輪の場合、8周(1周250メートル)。ペーサーが退避するのは残り2周半(ゴールまで625メートル)地点。その地点までは、駆け引きが激しく行われる。残り2周半は脚力勝負となる。日本発祥の競輪(公営競技)と同じ競技で、シドニー五輪から正式種目に採用された。日本は昨年6月のアジア選手権と、同10月の世界選手権で出場枠1ずつ、計2を獲得、プロの競輪選手が出場する。

(2000年4月18日付)

 

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