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新種目に迫る ケイリン(2)
日本の競輪を世界のケイリンへ。重い扉をこじ開ける作業は1994年10月、大きな転換期を迎える。舞台は広島のアジア大会。当時、日本自転車振興会の会長だった花岡宗助氏(75)は、来日した国際オリンピック委員会(IOC)サマランチ会長にケイリンの五輪参加を直訴した。同年W杯から最終種目となるなど、関係者の努力により認知度がアップしていただけに、同会長の反応は上々だった。 もちろん、参加OKの即答を得るのは無理だったが、スイス・ローザンヌのIOC本部を訪問して再度、要請できる運びとなった。花岡氏は扉が開き始めた喜びを胸に95年1月、当時の日本オリンピック委員会(JOC)林克也専務理事と国際自転車競技連盟(UCI)フェアブルンゲン会長の3人で訪問し交渉。「その可能性はある。アトランタは無理だがシドニーでは実現するよう努力する」との回答を得た。 その回答の実現には条件が付いた。その1つの日本の自転車団体のプロとアマの一本化は早急に実現し、日本自転車競技連盟が誕生した。さらに、95年UCI理事会では「世界選手権と五輪の種目を同一に」が決議され、ケイリン、オリンピック・スプリント、マディソン、女子500メートルタイムトライアルの4種目が五輪種目の仲間入りへ大きく前進した。 96年アトランタ五輪では、サマランチ会長に自転車のトラック競技観戦を強く要請した。「直接見てもらえれば面白さは分かるはず」。関係者の思惑通りに観戦。五輪後の11月、メキシコで開かれたIOC理事会は満場一致でケイリンを正式種目に認定した。五輪の肥大化を防ぐため選手総数を増やさないという条件も、選手の複数種目兼任でクリアした。 同年12月24日。関係者に最高のクリスマスプレゼントが届いた。UCI会長から五輪種目の公式連絡。91年から5年間、重い扉を開く作業にかかわった花岡氏は「そりゃあ、うれしかったですね」と昨日のことのように言葉を弾ませ振り返る。「せっかく(正式種目に)なったんだから、ぜひメダルを取ってもらいたい。ケイリンはこれで世界にスポーツとして出て行ける。競輪でお金を稼ぐのもいいが、それを犠牲にしてもメダルを取りたいという若手を養成していきたい」。 競輪の発祥から52年。花岡氏はダン・グレイ・ベロドロームで五輪のケイリンを見る。【五輪取材班】
◇競輪の五輪種目採用まで
◆1948年(昭23) 競輪スタート、第1回小倉競輪が開催。 (2000年4月19日付) |