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「あのメダルは今」
五輪がゴールと決めていた。その時26歳。「まだ(選手として)やれたとは思う。でも、終わりを決めないと、苦しい練習に耐えられなかった」。結果は銅。これを最後に日本バレーボール界は現在まで五輪メダルを獲得していない。 しかし当時は「史上最低」の銅だった。女子バレーは、正式競技となった東京大会以来、金、銀、銀、金。不参加となったモスクワ大会を除けば、すべて決勝進出していた。 「あの瞬間、ひょっとして決勝に行けないの? という考えが頭をよぎったんです」。それは予選リーグの中国―米国戦。別組の日本は、予選1位を決めていた。その試合の敗者と、決勝進出を争うことになっていた。中国は当時、エース郎平らを擁した世界最強チーム。「中国が負けるわけないと思っていた。米国と準決勝で当たれば、勝つ自信はあった」。ところがメンバーを落とした中国は“疑惑の”敗戦を喫し、日本の準決勝の相手となった。「目の前真っ暗。パニック状態でした」。頭の中で描いていたシミュレーションが、全く役に立たなくなった。動揺した日本は、なすすべなく敗れた。 前年11月のアジア選手権で、日本は中国を破って優勝していた。「あの試合は会心の内容だった。五輪でも決勝で当たれば、火事場のばか力が出る予感があった」。それこそ、当時の中国が唯一恐れていたことだった。「日本に帰ってきて、江上(主将)の第一声は『すみませんでした』だった。全員の気持ちでした」。やりきれない悔しさを残したまま、現役を退いた。 高校教師、大学助手を経て、1990年(平2)に筑波スポーツ科学研究所へ移った。自由になる時間ができてからは、次々と新しい分野に挑戦してきた。バレー教室の全国ツアーは、もう6年目になる。「主婦の方たちに、健康問題を知ってもらおうと」始めた。 98年にはJリーグ理事に就任し、地域密着型の総合クラブ組織を支援。文部省では指導要領の変更に携わり、厚生省でも新しいスポーツ環境づくりのために働いている。「こんなことがしたいな、と思っていると仕事の話が舞い込んでくる。運があるんですね。金メダルが取れなかった運を『分割払い』でもらってるのかも(笑い)」。スポーツの枠におさまらない活躍は、現役時代のスパイクのようにしなやかで力強い。 メダルは福井県の実家に預けてある。「心の整理がついたら、親にあげようと決めてました。ソウル五輪が終わった後です」。年に2回、帰省するときだけ触れる。バレー人生のすべてが詰まった銅メダルを、今だからこそ素直に受け止められるようになった。【五輪取材班】
(2000年3月3日付) |