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「あのメダルは今」
10万観衆の度肝を抜いた。1932年8月14日、西竹一さんと愛馬ウラヌスは伝説を作った。当時は五輪の華として、閉会式に先だって行われた馬術大障害。超満員のスタジアムに11番目で馬場に飛び出し、大小19の障害を次々にクリアした。10番目の選手までで完走者4人という難コース。減点12でトップだったチェンバレン(米国)を上回る減点8でフィニッシュした。「バロン・ニシ、バロン・ニシ!」。前回五輪最下位の日本から来た男爵に、スタンドの観客が総立ちで拍手を送った。ロサンゼルス市からは、市民栄誉賞が贈られた。 それから13年後の45年3月22日、太平洋戦争末期に、西さんは壮絶な最期を遂げた。連隊長として赴任した硫黄島で、米軍将校から追いつめられ、こう呼びかけられた。「バロン・ニシ、ロサンゼルスでの名誉は知っている。もう終わりだから、降伏しなさい」。しかし、これを拒絶。両足に銃弾を浴び、戦地で永眠した。胸には、ウラヌスとの写真がしのばせてあった。その6日後、愛馬も主人の後を追うように息を引き取った。 西さんの功績をたたえるため、84年のロサンゼルス五輪には長男泰徳さん(72)が招待を受けた。当時、父が優勝したスタジアムを訪れると、入り口の銅板に「JAPAN TAKEICHI NISHI」と刻まれていた。半世紀以上を隔てて、同地で開催された五輪が、西親子をロサンゼルスで結びつけた。メダルは今、東京・国立競技場内の秩父宮記念スポーツ博物館に、ウラヌスのてい鉄とともに飾られている。 泰徳さんは現在、硫黄島協会の副会長を務めている。主に硫黄島戦死者の遺族を中心に、会員約5000人。毎年、遺族たちとの慰霊墓参を欠かさない。厚生省を中心に行われている遺骨収集にも、積極的にかかわっている。「硫黄島では約2万人が亡くなったといわれています。収集されたのはまだ8000体。終戦から55年たった今でも、1万2000の遺骨が残っています。一刻も早く、日本に迎えることが念願なんです」と泰徳さん。父竹一さんの遺骨もまだ、硫黄島東岸に眠っている。【五輪取材班】
(2000年3月29日付) |