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「あのメダルは今」
「ヌメロ ディエシヌエベ シュンイチロウ・オカノ!」。スペイン語で背番号19の選手が場内アナウンスされた直後だった。10万大観衆をのみ込んだアステカ・スタジアムが、ブーイングの口笛に包まれた。「おまえのメダルはインチキだ」「おまえはコーチじゃないか」「なぜコーチがメダルをもらえるんだ」……。1968年メキシコ五輪サッカーの表彰式。銅メダルを獲得した日本選手で、最後に表彰台に立ったのが、岡野俊一郎・現日本協会会長(68)だった。 「いやー、あの時は参った。15番目の釜本でワーッとすごい大声援がきた、と思ったらボクの時にブーイング。わけも分からず、スタンドに向かって手を振ってね(笑い)。言葉(スペイン語)が分からなくて良かった、と思ったのはあの時が初めてだったな」。古き良き時代のワン・シーンを、岡野会長は目を細めて懐古した。 いきさつはこうだ。当時の日本代表は、長沼健監督、岡野、平木隆三両コーチ以下、選手は経費削減の憂き目にあい登録リミット1割減の18人。当然ながら日本選手団として公式の肩書は「岡野=支援コーチ」。そしてここで、選手村の岡野コーチを訪ねた1人の男が「秘話」のカギを握ることになる。同年3月のメキシコ遠征でも日本代表に付き添った、同国サッカー協会役員のアントニオ・ロッカ氏(のちのメキシコ代表監督も歴任)だ。 親日家で面倒見のいい同氏は、日本チームを案じるように、岡野コーチに進言した。「1日置きの日程じゃケガも疲労もたまる。おまえだってまだプレーできるだろ? 心配するな、組織委員会はオレが何とかしてやるから」。こうして、その約10年前には選手として日本代表で活躍したこともある、当時37歳の「コーチ岡野」は選手登録された。 「コンピューターもないような時代でしたからね。むろんボクが出るようじゃおしまいだけど、冗談で長沼監督と『3位決定戦の終了1分前に出ようか』なんて、会話したのを覚えてますよ」。都内の岡野会長の自宅には、正真正銘の銅メダルとIOC(国際オリンピック委員会)認定の公式デュプロマが飾られている。いわばNOC(国内オリンピック委員会)非公認、IOC公認のいわくつき? の貴重な代物。「これはギネスブックもの(笑い)。ただし、単なるメダルではない。東京五輪前からのメンバーで構成された、手のかからない大人のチームの象徴なんですよ」。親日家のメキシカンと、手塩にかけて育てた選手18人からプレゼントされた、何物にも代えがたいメダルだった。【五輪取材班】
(2000年3月30日付) |