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「あのメダルは今」
夫のメダルは故障との闘い、妻のメダルは育児との闘いだった。夫婦で五輪出場を果たした選手は、ほかにもいる。しかし同一大会でともにメダルを獲得したのは、1964年(昭39)東京の小野喬・清子夫妻だけだ。 「鬼に金棒、小野に鉄棒」といわれた喬氏は、東京教育大(現筑波大)3年で52年ヘルシンキ五輪に出場、次の56年メルボルンの鉄棒で日本体操界初の金メダリストとなった。58年に結婚し60年ローマも出場、4連続出場となる東京五輪は33歳。全盛期の体力はなかったが、まだ技術では世界のトップクラスだった。 しかし大会直前、思わぬアクシデントが襲った。右肩の痛みだ。本番の規定演技中、激痛がぶり返した。翌日の自由演技では痛み止めの麻酔を打った。しかしかえって感覚がなくなり、演技に支障をきたした。演技の合間に針を何十本も打った。動かない腕にむち打つようにして、最後まで乗り切った。悲そう感漂う、団体金メダルだった。 東京五輪前、清子さんはすでに子供2人を出産していた。3歳の長女と1歳の長男。体操界初のママさん代表だった。「彼女には男に分からない苦労があったでしょう」と喬氏は話す。 子供たちを実家の母や姉に預け、清子さんは練習に打ち込んだ。やむを得ず体育館に子供を連れてくるときは、おしめとミルクを持参。学生らに子守をしてもらった。上の子はトランポリンで遊ばせた。跳び箱の一番上をひっくり返し、揺りかご代わりにして下の子を寝かせたりもした。 家に帰っても、夫妻は体操の話をした。喬氏は「あそこはつまさきをのばした方がいい、とか。ワンポイントレッスンですよ。別々に練習していても、同じ会場なら互いにチラチラ見てますから」と振り返った。無駄な時間は、1分もなかった。 東京五輪後の65年、2人は池上スポーツ普及クラブを設立した。体操を中心とした総合スポーツクラブの先駆けだった。ここからソウル五輪代表の小西裕之らが育った。 喬氏は4大会で日本最多の計13個のメダル(金5、銀4、銅4)を獲得した。しかし東京五輪のメダルは、手元にない。実はローマ、東京の2大会では、体操の団体競技には6人で1個のメダルしか与えられなかったのだ。男子の金、女子の銅メダルは現在、日本協会に飾ってある。「夫婦で持ってないんですよ。IOCに文句言いたいですよね。今からなんとかならないかな(笑い)」。【五輪取材班】
(2000年3月22日付) |