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新種目に迫る トライアスロン(1)
1・5キロのスイム(水泳)から40キロのバイク(自転車)へ、最後は10キロのラン(長距離走)でゴール――。トライアスロンは、米国で産声を上げて27年目で五輪正式競技となった。日本初の大会が開催された1985年に、日本トライアスロン連盟(当時)が発足。会長には、文化人だったプロ野球巨人の長嶋茂雄監督が就任した。93年の球界復帰で普及や強化からは離れたが、日本のトライアスロンには、約10年間にわたる長嶋監督の情熱が、血が流れている。 ■メンタル面指導、選手にプロ意識 今月9日のW杯第3戦石垣島大会。日本勢は、女子が2、3位、男子も3位と表彰台に立った。今や、シドニー五輪でメダルの期待がかかる新競技だが、実は日本での歴史は、まだ約20年と浅い。しかも、日本にこの競技を広めた「伝道師」は、あの長嶋茂雄監督だった。 1984年8月。テレビリポーターとしてロサンゼルス五輪を観戦した長嶋監督は、米国水連から日本でのトライアスロン普及を依頼された。すでに米国は五輪ディスタンスの全米選手権も実施、五輪種目に向けての活動が本格化していた。「21世紀のスポーツ」として興味を持った長嶋監督は賛同者とともに、早くも85年には日本トライアスロン連盟を発足させていた。 当時、日本には競技者はいたが、国内には全く浸透していない。文字通りゼロからのスタートだったが、同年には熊本・本渡市で五輪ディスタンスの大会まで開催してしまった。日本トライアスロン連合(JTU)大塚真一郎強化本部長は「長嶋さんの言葉で、マスメディアを通して普及してもらえたことが、本当に大きかった」。 その後も、町おこしの一環として、他県でもトライアスロンの大会が開催されるようになった。小規模の大会でも、長嶋監督は時間の許す限り駆けつけた。トライアスロンが地域のスポーツ活性化に与えた効果を評価した本渡市は、89年に完成した広瀬公園野球場に「長嶋茂雄球場」の愛称を付けたほど、「トライアスロンの長嶋」の効果は絶大だった。 長嶋監督は選手育成にも尽力した。トライアスロンのプロ第1号で、98年まで全日本チームを率いた中山俊行氏、同2号で今年3月から全日本チームを任された飯島健二郎氏らに「プロ意識」を植えつけた。大塚強化本部長は「外国人に気後れした時などに、試合への意気込みとか、プロのスポーツマンたるものの刺激を与えていました」と強調する。全日本の飯島監督は日大二高野球部出身。同じ野球人ということもあり、特に熱心にメンタル面の指導をしていたという。 94年の国際オリンピック委員会(IOC)総会でトライアスロンはシドニー五輪からの正式競技に採用された。時を同じくして日本トライアスロン連盟をはじめ、トライアスロンの数団体が団結。JTUが発足した。しかし長嶋監督は前年の93年に球界復帰し、日本トライアスロン界とは距離を置く立場となった。大塚強化本部長は「長嶋さん本人はトライアスロン出身ではないが、今の指導陣に土台を残してくれた」と恩を忘れない。JTUでは、今年7月の五輪壮行会に招待する予定だ。【五輪取材班】
◆トライアスロン五輪出場権獲得方法 男女とも50選手が出場する。国別参加枠は、世界ランクに入る選手の順位をポイント化した、国別ランキングによって決定。上位6カ国は3人、7〜13位は2人、14〜20位は1人という方式で39人分を選出。大陸別選考会で8人、ホスト国に1人、国際オリンピック委員会のワイルドカードで2人で計50人となる。国別では、最大3人までが出場可能。日本は現在、女子は5位で3人、男子は8位で2人の枠が獲得できる状況で、残りの男子枠はアジア選手権で獲得を狙う。 ◆歴史 1974年9月25日、米カリフォルニア州サンディエゴのミッションベイで初めて大会が行われた。78年にはウルトラロングディスタンス(225.2キロ)のハワイアイアンマン大会が開催。オリンピックディスタンス(51.5キロ)の大会も広まり、89年には国際トライアスロン連合が創設された。94年にシドニー五輪の正式競技採用が決定。日本では81年鳥取・米子市の皆生温泉で初めて大会が行われ、85年には宮古島、びわ湖でロングディスタンスの大会、熊本・本渡市で日本初の51.5キロのレースが開かれた。 (2000年4月13日付) |