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「あのメダルは今」
「戦後は、メダルどころじゃなかったよ。お米を買うお金もなかった。生きるために必死だった」。敗戦の混乱が残る1949年(昭24)。鵜藤俊平さん(81)は知人の誘いがあったため、静岡で勤めていた広告会社を辞めて上京した。「知り合いから電通に入れてやるから、と言われて、半年間埼玉の大宮にいたんです。会社を辞めたから、収入がない。妻のげたまで質屋に入れて、最後はメダルも持って行きました」。つらい練習を耐えて勝ち取った銀メダル。1500メートル自由形で獲得した銅メダルと一緒に、生活費をねん出するために差し出した。 「いくらお金を借りたかは、覚えていない。3カ月間ぐらいメダルを預けて、お金は利子をつけて返しましたよ」。生活苦が続けば、2つのメダルは大宮の質屋に預けたままだったかもしれない。競技者は五輪のメダルを獲得する夢を見るが、実現後の人生が幸せに満ちたものとは限らない。 「メダルを取ったって、自分の人生にプラスはないよ。逆にマイナスが多いかな。マラソンの円谷さん(64年東京五輪銅メダリスト)が自殺したでしょ。メダリストは、いじめられるんですよ」。50年に新潟日報に入社。職場の人に「おまえから五輪のメダルを取ったら、何が残る」と言われた。新潟・長岡市に住んでいる時は、郵便配達の人が「ここが五輪選手の家だ」と雑談しているのが聞こえた。メダルを持っていることが、苦痛だった。 「僕はお酒が飲めなくてね。夜のつき合いができないから、左遷されましたよ。万年部長だったなあ」。東京と新潟にそれぞれ15年ずつ滞在し、総務や事業の仕事を続けた。定年退社した後、84年に息子夫婦が住む千葉市に移り住んだ。「3人息子の真ん中が親思いでね。毎月20万円のお小遣いをくれるんですよ」。同じマンションや近所の人には、自分がメダリストであることは知られていない。 自由な環境で、ラジオ体操の指導を始めた。早起きして団地に近い公園に行き、約50人の前で模範演技。その後は馬ふんを使った有機肥料で、野菜を作るのが日課だ。「今は春の土を作るために準備をしているところ。キャベツ、ホウレンソウ、タマネギ、ソラ豆、エンドウ豆。いろいろ作りますよ」。春の訪れが、待ち切れない様子だった。【五輪取材班】
(2000年3月21日付) |