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「あのメダルは今」
渡辺さんの手元に、金メダルはない。自分の結婚式でも金メダルをかけたほどの宝物だったが、渡辺さんは必要ないと海外の知人に預けた。「海外に展示しているんです。血尿の出るぐらいの練習をして、世界一になった褒美はメダルよりも歴史に名を残せたことと考えたからです」。メダルを遠ざけて、新たな人生にこぎ出した渡辺さんだったが、その半生はあまりに険しかった。 長い物語は、東京五輪後、リウマチを患っていた父源吾さん(故人)を経済的に助けるため、24歳で現役引退した時から始まった。「金メダルでメシを食うな」とアドバイスした大学の先輩でヘルシンキ五輪金メダリストの故石井庄八氏が勤務していた電通に入社。万博や海洋博の会場づくりや協賛金集めなどビッグイベントを手掛けた。40歳だった1980年当時で、年収は約600万円。広告局の副参事(一般的には副部長に相当)まで出世。黒塗りの車で移動するエグゼクティブだった。「毎日、酒やゴルフの誘いが当たり前のように来ていた」。五輪金メダルの電通マンには、黙っていても人が集まった。 ビジネスマンとしても成功した時、起業家を志した。ここが人生の転機だった。「事業を起こす会社の先輩も多くて、自分の力を試したい」と20年間勤務した電通を84年に退社。知人とともにスポーツ用品販売会社の共同経営を始めた。しかし当初、納品先としてあてにしていたスポーツ専門学校が開校を中止して、資金繰りが悪化。借金を抱える中、1年足らずでその知人が姿を消し、会社は倒産した。今度は大学時代の友人と渋谷で「アニマル企画」という企画会社を立ち上げるが、パートナーにまたも裏切られて事務所を閉鎖せざるをえなかった。 2度の事業失敗の代償は大きかった。「アニマルも、もうこれまで」とささやかれ、友人は遠ざかった。「みんな手のひらを返したようだった。人間不信になったよ」。無収入のまま、家に閉じこもる日々が続いた。家族関係もギクシャクし、妻と2人の娘との別れも余儀なくされた。 眠れない日々。全身に漂う脱力感を紛らわすために酒に浸った。電通退社から2年間で絶望のどん底まで落ちた。「世間を甘くみていた。華やかな渡辺長武は虚像だったのに、実像であるかのように錯覚していたんですね。この時には自ら命を絶つことまで考えていた」。明日の食事も困るほどの貧困生活。この時、金メダリストには、マット上の栄光の片りんさえ残っていなかった。【五輪取材班】
◆メダルメモ 東京大会フリースタイル・フェザー級で、渡辺は3回戦まで連続フォール勝ちすると4、5回戦はカウンターを狙う相手に積極的に攻めて判定勝ち。決勝はソ連のホハシビリ。得意のタックルでポイントを稼いで1―0の判定勝ちで金メダルを獲得。同五輪フリー、グレコローマンの金メダリスト5人の中でただ1人、1ポイントも失わない完全優勝を果たした。
(2000年2月26日付) |