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20世紀 有終の祭典 「あのメダルは今」
64年東京 レスリングフリーフェザー級金 渡辺長武氏

 栄光の金メダリストから、事業失敗で明日の生活にさえ困る人生へ。どん底の渡辺さんに、再び光を与えたのはやはりレスリングだった。1986年(昭61)6月29日。当時のプロレスラー谷津嘉章がレスリングの全日本選手権130キロ級で優勝した。プロレスラーに敗れた現役選手のふがいなさに怒りさえ感じた。「どうせなら、レスリングで死ぬ気になろう。眠っていた魂が目を覚ましたんです」。当時46歳の渡辺さんは現役復帰を決意した。

 体重は現役時と比べ13キロも多い76キロ。野菜や果実中心の減量を始めた。生活費は友人にマンションを借り上げてもらい、新聞社のニュース配送の仕事に就いた。昼間は1日5時間練習し、夜は6時間の仕事。酒におぼれる日々から一転、禁酒、禁煙の体質改善に没頭した。最初は走っては足をつり、目まいを起こした。ブリッジ練習で頚椎(けいつい)を痛めドクターストップもかかった。しかし、8カ月間で体重65キロまで減量した。そんな姿に母校の中大も合宿所入りを許可。本気で、ソウル五輪代表を狙った。

 87年6月14日、五輪代表選考会となる全日本選手権の出場資格獲得へ向け、全日本社会人選手権に出場した。資格獲得は3位以内だが、ブランクは埋まらない。3回戦敗退。46歳の挑戦は終わった。しかし、渡辺さんは「試合には負けたが生きることには勝てた」と満足したという。

 物語はまだ終わっていない。その後も厳しい現実は続く。「今後はレスリング強化に人生をささげたい」と決意したが、日本協会には縁遠かった。何度か協会に足を運んだが「下働きから」と言われて、プライドが傷ついた。仕事も転々とした。不動産会社部長、医療機器販売会社などの非常勤顧問。国会議員を志して選挙に出馬したことが2度もある。89年(平元)10月には再婚したが「経済的問題」(渡辺さん)で、2年後にまた離婚。「名誉は得たが、生活には問題がある。神様がこれが私の課題だと教えてくれているんだと言い聞かせているんだ」。

 95年、関係者を通じて、大田区レスリング協会副会長(理事)に就任。昨年秋には東京都協会理事に就いた。都理事のうち5人が日本協会理事に就任できる。波乱万丈の時を経て、気がつけば日本レスリングを支えるポストにあと1歩まで迫った。「認められたのはレスリングだけ。その世界に戻るのが生きがい。第2のアニマルをつくりたい」。渡辺さんの金メダルは海外の知人に預け、世界各地で展示されている。1度はメダルは必要ないと遠ざけたが、道のりの終着点はやはりメダルの世界だった。【五輪取材班】


 ◆アニマル渡辺の愛称 渡辺さんは1962年全米選手権で6戦を全フォール勝ちの完全優勝。1試合平均約20秒でフォールする実力に米国マスコミから「ワイルド・アニマル」と評され、以後「アニマル渡辺」をニックネームとした。同年の世界選手権でも優勝しタックルなどの技の正確さから「スイスウオッチ」とも呼ばれた。東京五輪後には渡辺さんをモデルにレスリングでメキシコ五輪を目指す少年の物語「アニマル・ワン」(原作・川崎のぼる)が漫画とアニメとなり大人気となった。

(2000年2月27日付)

 

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