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20世紀 有終の祭典 新種目に迫る 女子重量挙げ(1)
長谷場 複雑な思い胸に最後の挑戦

 1896年の第1回アテネ五輪から行われている重量挙げ。そこに女子が加わるまで104年かかった。長谷場久美(36=埼玉栄高教)は日本で競技が始まった13年前から、第一人者として踏ん張ってきた。競技人生は、日本女子重量挙げの歴史でもある。長谷場を中心にシドニー五輪新種目女子重量挙げに迫る。

 「えっ」。受話器を握りしめたまま、長谷場は立ちつくした。1996年(平8)12月17日。女子重量挙げがシドニー五輪の正式種目に採用されたという、新聞社からの知らせだった。

 複雑に絡み合う思いが、一気にわき起こってきた。辛うじて「メダルを目指して頑張ります」という言葉を絞り出した。だが、本音には程遠かった。なぜ次の五輪なのか。心の中で何度も繰り返した。2004年なら、あきらめもつく。96年以前なら、世界と勝負できた。2000年は長谷場にとって、どうしようもなく「中途半端」だった。悔しかった。五輪に入らない方が良かったとさえ思った。

 恩師の加藤仁氏(埼玉栄高教、日本協会女子強化委員長)の顔を見ると、涙が止まらなかった。「1週間は頭の中、パニックですよ。神経が高ぶって、1カ月ぐらい苦しかった」。スポーツ選手にとって最高の舞台が用意されたことは、長谷場に思いもよらない衝撃を与えた。しかし、気持ちが落ち着くと、最初で最後の五輪に挑戦することを決めていた。

 国際ウエートリフティング連盟(IWF)内では、アトランタ五輪から採用を求める声があった。1大会遅れたものの、日本協会の桜井勝利理事は「アジアを中心に普及が進んだ。世界選手権の出場国も年々増えていたし、階級を減らしてメダルの数を調整すれば、五輪は実現できると思った」と経緯を話した。長谷場については「92年バルセロナ五輪で戦えたならば、間違いなくメダルを取っていた」と断言する。

 日本で競技が始まったきっかけは、87年の第1回女子世界選手権だった。実施が決まると、日本協会は全国の指導者に選手育成を呼びかけた。その中で埼玉栄高の加藤氏は、教員1年目の長谷場に可能性を見いだした。陸上のトレーニングの一環として、体育館でバーベルを挙げていた時期だった。

 「同僚の臼井淳一さん(走り幅跳び元日本記録保持者)と一緒にやってました。スクワットで100キロ挙げてたから、目を付けられたのかも。重量挙げ自体は『何が面白いんだろう』って思ってました」。あまり乗り気でない長谷場を加藤氏は熱心に誘った。そして87年4月、その後の人生を決めるイベントを迎えることになる。【五輪取材班】

 ◆長谷場久美(はせば・くみ)  1963年(昭38)7月27日、岩手県釜石市生まれ。東女体大で陸上の砲丸投げ選手。86年に埼玉栄高教員となり、翌年から重量挙げを始める。第1回から12年連続で日本チャンピオン。世界選手権で銀メダル3個獲得。ベスト記録はスナッチ93キロ、ジャーク120キロ、トータル207.5キロ。独身。165センチ。

(2000年4月22日付)

 

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