第327号 1面記事 清原を越えた怪童 原島四番 史上最強のルーキー見参 ‘01年夏。翼を広げた白球が青空高くに舞い上がる――。金属音と同時に、スタンドへ3度吸い込まれた弾丸ライナーは、あの清原和博選手(PL学園高・現読売ジャイアンツ)以来の演出だった。甲子園で打ち立てた金字塔。それは、原島(営1)がつくり上げる伝説の前触れに過ぎない。 卓越した能力 1月下旬、スポーツ紙面上にとある記事が躍った。“原島開幕四番―別府総監督が名言”。プロが徹底マークした昨夏の怪物は、大学でも話題の中心となった。練習でも両翼100b、中堅125b、神宮より一回り大きな島岡グラウンドの場外へかっ飛ばす。加えて、右へ左へと打ち分ける卓越した打撃センス。原島は自分の実力が本物であることを合流後すぐに証明してみせていく。経験豊富な明治の中軸打者和田(貴・文4)も「アドバイスが欲しいほどすごい」と舌を巻いた。 明治の4番へ 「野球人生で四番しか打ったことがない」。シニア時代、そして、甲子園最高チーム打率,427をマークした日大三高時代も、そこは原島の指定席だった。「あいつを四番から外そうなどとは考えたことがない」(日大三高・小倉監督)。ここまで教え子を褒めたたえた言葉の裏にはこんなエピソードがあった―。 フリー打撃後決まってボールの数が減っていた。その原因は原島のパワー。外野ネットを軽々と越えていく打球は奥の田んぼへと消えていってしまうのだ。「トラックにボールを積んで親父に持ってこさせろ」(小倉監督)。そんな冗談を言われるほど毎日サク越えを連発する原島。練習後、自分で打ち込んだ球を拾いに行くのが日課となっていた。 そしてそのパワーを全国に知らしめた昨夏の甲子園。「左にあれだけ飛ばせる左打者はそうはいない」(小倉監督)。2回戦,対花咲徳栄高戦。流し打ちでレフトスタンド中段まで運んだ一発は日本中の野球ファンの度肝を抜いた。 明治に来た原島は相変わらずといった鋭い打球を放っている。そして「何か引き付けられるものがある」(斉藤監督)打席での貫禄。オープン戦では多くの三振を喫するも、フルスイングから時節放たれるファールの打球は、「次元が違う」(小橋・営4)。もはや、原島の実力を疑うものは誰もいなかった。「四番はあいつしかない」。斉藤監督は自信を持ってリーグ戦開幕四番を明言した。 伝説の創設者 神宮での初陣を前に原島が宣言する。「高橋由伸選手(慶応、現読売ジャイアンツ)の持つ六大学本塁打記録を塗り替えたい。最低25本打つ」。4月20日、明治開幕戦。スコアボードに四番原島が刻まれた瞬間、原島伝説の幕が上がる。偉大な記録に挑戦する原島へ送る言葉、“メイク・ザ・レジェンド”――伝説をつくれ! [大島亮昇]