少し前に受けたSPI試験で「無感動なところがある」といわれてしまった。そんな自覚がないわけでもないが、スポーツ観戦はやはり私にとって別格だ。スポーツは時に言葉にならない涙まで、運んできてくれる。結局無感動かそうじゃないのかいまだに良く分からないが、こんな私に一体このコラムが書けるのか夏ごろからずっとドキドキしていた。が、遂に順番が回ってきたので筆を執る。 さて話は本題に入るが、私はスポーツの中に武士道の影を見る。武士道とスポーツを結び付けて考えるのは、私ぐらいのものだろうか。そもそもこの二つを結びつけて考えるようになったきっかけは、この言葉だった。
読む人が読めば誰が誰に向けた言葉だか分かってしまうが、どちらも紫紺の関係者ではないのであえて伏せさせてほしい。これは私の母校の高校教師が、その大学生選手の息子に向けて試合前に贈った手紙の中の言葉だ。そしてその息子は試合に勝ち、見事日本一に輝く。 命を惜しむより名を惜しめ。昔の武士は斬首されるぐらいなら、切腹を選んだ。当然切腹をして自ら腹をかっさばくより、打ち首にしてもらった方が苦しまずに楽に死ねる。しかし武士は打ち首されて罪人として死んでいくより、自ら切腹をして武士としてのプライドを持ったまま死んでゆきたいがために切腹を選んだ。つまり痛くても辛くても苦しくても、命より自分の名を重んじたのである。 命を惜しむより名を惜しめ。これだけ聞くと、とてもスポーツ選手に向けられた言葉ではないと聞こえるかもしれないが、良く考えてみるとこれほどトップアスリートに似合う言葉もないと思う。命を惜しみ自分を甘やかしていく道は、緩やかでとても歩きやすい道だろう。だが今まで取材を通じて出会った素晴らしい選手たちに、そんな道を選んでいる人はいなっかた。 責任者の重圧を背負い、緊張や不安から試合直前までトイレに行き吐きそうになりながらもそのプレッシャーを跳ね飛ばし日本一の称号を掴んだ選手。合宿先でまだ雪の残る中夜が空ける前から自主練習に励む選手。個性的な部員を前に胃が痛くなりながら髪の毛が抜けながらも主将としてチームを優勝に導いた選手。他にもまだまだいる。 彼らはみな辛く険しい道を登り日々己を磨いていた。自分の命を惜しむより、選手の、そしてチームとしての名を大切にしていた。 平和な日常生活において命より名を惜しむことは、誰にでもできることではない。だが現代人に忘れさられた武士道は、アスリートたちの中には息づいている気がしてならない。命より名を懸け、日々己と戦い鍛え上げている選手達は私にとって尊敬の対象である。そしてそう思えるからこそ「無感動」な私でもスポーツ観戦が好きなのかもしれない。 ☆少々突拍子もない切り口で、お口に合わない方がいらっしゃいましたらすみません。次回は沢井裕美(商3)です。たくましさと繊細さ、その両面を持ち合わせた頼りになる姐さんです! 私とスポーツ バックナンバー