昨年12月29日、茨城・江戸崎CC。西武大崎雄太朗外野手(32)は、中学時代ともにプレーした球友たちと、1年を締めくくる「忘年ゴルフ」をしていた。

 スタート時の気温は1度。思うように身体は動かず、グリーンも凍っていた。それでも親しい仲間たちとのラウンドに、笑顔は絶えなかった。

 乗用車販売会社。ガス会社。警察官。そしてプロ野球。ショットの合間、それぞれのフィールドでの1年間を報告し合っていた。そしてやがて、その場にいない1人の旧知の話題になった。

 「萩原、頑張ってましたね」。「惜しかったな」。大相撲で年間最多勝を挙げた、大関稀勢の里だった。


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 中学時代の大崎らがプレーした竜ケ崎シニアの地元龍ケ崎市では、後の稀勢の里である萩原少年は、将来有望な野球選手としても知られていた。

 竜ケ崎シニアにも体験入団で訪れ、なぜか2学年上の大崎らと相撲もとった。そして中学卒業時には、大崎らの活躍でセンバツ優勝を果たしたばかりの常総学院からも、野球部への勧誘があった。

 萩原少年はこれを断り、大相撲の世界に進んだが、同級生の中には常総学院の野球部に進んだ選手もいた。そんな縁もあり、大崎は稀勢の里と早くから交流を持っていた。

 千葉の地方球場で行われた2軍戦に、稀勢の里がサプライズで応援に訪れたこともある。「一応後輩ですけど、飲んだらヘッドロックをかけてくる」と笑う。

 そんな親しい関取は16年、常に優勝争いに加わり続け、毎場所「綱とり場所」と言われ続けていた。しかし勝負どころで勝ちきれず、初優勝、そして横綱にあと1歩届かなかった。

 ティーショットを待つ間、大崎と友人たちは「厳しい世界だよな」「頑張ってほしいですけどね」とうなずき合った。稀勢の里の前途にそれぞれが思いをはせ、しばらく無言になった。

 白い息だけが、静かにたゆたう。やがて前の組はグリーンを去ったが、誰もすぐにはティーアップをしなかった。


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 年が明け、17年初場所。稀勢の里はついに初優勝し、横綱になった。27日、新年初めて西武第2球場を訪れた大崎は「萩原が、横綱稀勢の里に変身するんですね」と感慨深げに言った。

 「本当にうれしいですけど、これからの方がきっと大変なんでしょうね。相撲という競技の象徴、もしかしたら日本文化の象徴になるわけですからね。しかも日本人として19年ぶりの横綱。今までのどんな横綱よりも、日本全国の期待を背負うことになる」

 わが事のように、厳しい表情で言う。稀勢の里の将来を心配する横顔は、年末のゴルフの際と変わらなかった。

 それでも大崎は、横綱昇進伝達式での口上に話題が及ぶと「すごくよかった」と顔をほころばせた。

 横綱の名に恥じぬよう、精進致します-。定番の四字熟語はなかったが、そここそを好ましく思った。「難しい言葉を使わず、シンプルだった。そして言葉通りに、精進するのだと思う。本当に彼らしいです」。

 同じプロアスリート同士。今後の結果を保証してくれるものなど何もないということは、よく分かっている。だが稀勢の里が「らしく」相撲をとってくれるということだけは、大崎には確信できる。


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 横綱になった以上、常に優勝争いに加わり続けなければならない。強さを示せなければ、引退を勧告されることもある。引き際を自ら決めることもできないかもしれない。

 明日なき戦い。それは、大崎も同じだ。ダルビッシュを得意としたり、毎年のように代打での打率3割以上を記録したりと、打撃の職人としての特別な存在感を示してきた。

 しかし昨季は、1軍4試合出場とほぼチャンスを与えられなかった。オフの契約更改交渉では、20%の年俸ダウン提示も受けた。

 それでも大崎は交渉後の会見で「やはり、仕留めないと。少ないチャンスで結果を出してきたから、ここまでやってくることができた」と言った。

 多くは語らない。あくまでシンプルに話す。「やれる自信はある。あとは仕留められるか」とうなずき、会見の席を立った。

 「精進する」と稀勢の里は言う。

 「仕留める」と大崎は言う。

 文字通り、土俵は違う。それでもプロ同士、厳しい戦いが待っているのは同じだ。シンプルな言葉に決意を込め、大崎が新シーズンに臨む。【塩畑大輔】