5日午前9時、埼玉・メットライフドーム。まだ誰もいないグラウンドに、どこかからかすかに素振りの音が聞こえてきた。

 風切り音の主は、西武上本達之捕手(36)。ベンチ裏の素振り用の部屋で、壁一面の鏡に向かい、黙々とバットを振っていた。

 ひとしきり振り終わっても、まだ誰もグラウンドには現れない。上本はストレッチを済ませると、おもむろにバックネット前に設置されたピッチングマシンのスイッチを入れた。

 バント練習のためのマシンは、ホームプレートとの距離15メートル弱の近さに置かれている。

 上本はさらにマシン寄りに立ち、12メートルほどの距離からの投球を、打席に立って待った。

 打つことも、振ることもしない。タイミングをとり、にらみつけるように投球を見送る。

 目慣らしか。イメージトレーニングなのか。10分以上も繰り返すうち、ようやく他の選手がグラウンドに降りてきた。

 「昨日の打席を見直したんですけど、やっぱり初球を何とかするしかなかった。その反省もあるんで」

 ポツリと言い残すと、上本は他の選手たちがつくる、ストレッチの輪の中に入っていった。


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 前日のオリックス戦。9回裏無死の場面で、上本は代打として今季初打席を迎えた。

 相手は侍ジャパンにも名を連ねたオリックスの守護神、平野佳寿。真っすぐに強い上本に対し、3球続けてフォークを投げてきた。

 上本は3球とも振りにいった。すべて空振り。3球三振に終わった。

 相手には4点のリードがあった。走者もいない。いわば何の制限もかからない状況。絶対にケガをしない配球を選ぶことができた。

 逆に上本は、この1打席で結果を出すしかない。極めて分の悪い勝負。それでも「自分たちの仕事は、そこを何とかするしかないんです。少なくとも、初球に突破口はあった」と言う。

 「どこの球団のバッテリーも、僕がいつも真っすぐ狙いというのは分かっていると思う。書いてもらってもまったく問題ないくらいです。それでも、真っすぐを投げざるを得ない状況をつくることはできる」

 上本は試合後、三振した打席の動画を、何度も見返した。そして自分がどうあるべきだったか、自問自答を繰り返した。

 「初球のフォークは比較的甘かった。あれをしっかりとらえて、最悪でもファウルにする。そうすれば、簡単にフォークを投げることはできなくなります」

 翌朝。誰もいない球場でバットを振る上本は、脳裏に前日の初球フォークを思い描いていた。

 次こそ、初球から悔いのないスイングを-。その一念で振る。

 「もう、この年ですから、次の打席が現役最後になるかもしれない。それが現実です。だからこそ、初球からしっかり振れないといけない」


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 次の一振りが、現役最後かもしれない。

 上本を駆り立てるのは、まさにその思いだ。

 試合前の練習から、先頭に立って声を出し、場を盛り上げる。試合が始まっても、ベンチから聞こえるのは、上本の声だ。

 辻監督をして「団長(上本)はそういう部分でも本当に頼りになる」と言わしめる。それが試合中盤からベンチ裏に下がり、黙々と素振りを始める。

 球場によっては、ベンチ裏でティー打撃をしたり、マシン打撃ができたりするところもある。しかし上本は、あえて素振りのみで準備をする。

 「ボールを打ってしまうと、インパクトの感触でごまかされてしまうところがある。偶然芯を食っただけなのに、いいスイングができた気になってしまう」

 「それよりも、思い通りの軌道、思い通りのスピードでバットが振れるかどうかに集中したい。素振りの段階で思い通りに振れてなければ、打席で投球に対処する中で、いいスイングはできるはずがないんです」

 絶対に、1振り目からベストのスイングをする。そのためには、素振りの段階から、1度たりともミススイングは許されない。

 集中力が高まる。殺気すら感じさせる。素振り部屋を通り過ぎる他の選手たちは「それまで、チームを盛り上げるために明るく振る舞っていたのとは、まるで別人。とても声をかけられない」と証言する。

 やがて首脳陣から代打のタイミングが告げられる。ベンチに戻り、マウンド上の対戦相手をにらみ付ける。タイミングをはかる。初球のスイングを思い描く。

 そうやって身体を温め、気持ちを高め、試合終盤に満を持して打席に立つ。

 「そろそろいくぞと言われても、展開次第で打席に立てないこともあります。そうなると、反動でドッと疲れが来る。打席に立った時以上に来る。本当に、立っていられないくらいになるんです」

 それほどに、自分を極限状態に追い込む。それが、1スイングにすべてをかける男の仕事の流儀だ。


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 11日、郡山市内。楽天戦は正午前に中止が決まった。チームは市内の宿舎から直接、翌日の試合が行われる仙台へと移動した。

 チームバスに乗り込む上本は、移動用のキャリングケースとは別に、なにやら袋を抱えていた。

 「これですか? 鳥のムネ肉です。これからバスの中で食べます」。

 宿舎近くのコンビニで買った、サラダ用に調理された鳥肉のパックだった。

 昨年、打率3割をマークした。代打として並外れた成果を上げたが、長いシーズンを戦い続ける中で「脳の疲れ」によるコンディション低下も感じた。

 毎試合が極限状態の繰り返し。身体と同様、もしくはそれ以上に、脳が疲弊してゆく。そうなれば、打席の中で駆け引きや正しい判断ができなくなる。

 そして、身体を動かすのも脳。脳が疲れては、理想のスイング、投球への反応もできなくなる。

 昨オフ。上本は書籍を取り寄せ、読みあさった。脳の疲労回復に「イミダペプチド」という物質が効果があると知った。

 渡り鳥が不眠不休で何万キロを飛べるのも、この物質を身体に多く蓄えているからだという。上本はイミダペプチドを多く含む、鳥のムネ肉を常に摂取するようになった。

 試合後、宿舎に戻るとコンビニに出向き、サラダ用のムネ肉を買い込み、自室でかぶりつく。

 「脳が元気じゃないと、睡眠の質が下がる。そうなると余計脳が疲れる。ムネ肉を食べるようになってから、目覚めがすごくよくなったんです。視界がクリアな感じがする」

 同僚の中には「思い込みじゃないですか?」と疑問を呈するものもいる。上本は「思い込みでもいいんですよ」と笑い飛ばす。

 「疲れが取れている気がするのが大事。結果として、悔いがない形でバットが振り切れれば、なんだっていいと思ってます」


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 11日現在、上本はオリックス戦での3球三振を最後に、代打の機会を得ていない。

 それでも毎試合、誰よりも早く球場に現れ、黙々とバットを振る。球場外でも、心身のベストコンディションを保つため、あらゆる手だてを講じる。

 すべては、悔いなき一振りのため。打席に立たずとも、常に戦いは続く。それが、代打屋のシーズンだ。【塩畑大輔】