今月7日の試合前。広島・マツダスタジアムのバックネット裏にある記者席に座っていると「よう」と声をかけられた。本紙評論家の広瀬叔功さんだった。

 評論をお願いする日ではなかったが「野球を見に来たんや。それにしても暑いのう」とフラリと訪れたのだった。ご苦労さまです。

 その日の試合は、平和を願って開催される「ピースナイター」だった。毎年8月6日の前後に行われる。今年で11年目。つまりマツダスタジアム開場と重なる。旧市民球場は毎年8月6日は「休場日」だったことを、広島に赴任して初めて知った。広瀬さんは、小3で体験した原爆のことを静かに語り始めた。

 「稲妻のように波打つ光に囲まれてな。何秒かして、ドーンと大きな音が来たんや」。爆心地から約25キロ離れた大野町(現廿日市市)の小学校の校庭で遊んでいたという。学校の指示で帰宅する途中、トラックで次々と被爆者が病院に運ばれるのを見た。自宅に戻ると2階部分のガラスが吹き飛んでいた。

 両親は、軍に入ったばかりの広瀬さんの兄を捜しに、必死の思いで広島市内に向かった。あちこち聞き回って、収容所の場所が判明。みな顔の判別がつかない状態だった。両親が名前を叫ぶと、兄は弱々しく手を挙げ、そのまま帰らぬ人になったそうだ。

 広瀬さんは「兄貴に比べたら、苦しいこととか、怖いことなんか何にもありゃせんわ」と涙ぐんだ。言葉が出なかった。そして試合の5回終了時には、ジョン・レノンの「イマジン」が静かに流れていた。平和のありがたみを、あらためて感じた。【広島担当 大池和幸】