満員の観衆をのみこんだ、後楽園球場での巨人-阪神戦。マウンド上には江夏豊。長嶋茂雄、王貞治の両雄は打席にはいない。それぞれ三塁と一塁にいる。白とオレンジのユニホームに身を包んだ怪物左腕が振りかぶり、宿命のライバル阪神打線に第1球-。

こんなシーンが、4分の1の確率で実現していたかもしれない。

今から54年前の1966年(昭41)9月5日に東京・日生会館で行われた、同年の第1次ドラフトが運命の分かれ道となった。当時のドラフト1位は、12球団による入札制だ。現在と同じく、各球団が獲得したい選手名を書いて提出。重複した際には抽選を行う。

この年ドラフトの目玉が江夏だった。甲子園出場こそならなかったが、大院大高時代には1本の柵越えも許さなかったという好投手だ。スカウトの視線は集中していた。

ドラフトでは阪神のほか、東映(現日本ハム)、阪急(現オリックス)、そして巨人の4球団が入札した。くじ引きの結果、地元の阪神・戸沢一隆代表が当たりくじを引き、指名権を獲得。その後さまざまな記録と逸話に彩られた野球人生を送り、球史に残る投手となったことは多言を要しない。一方の巨人に外れ1位で入団したのは山下司内野手(高知・伊野商)。内野の控えとして存在感を示したが、やはり江夏を獲得できた阪神が得をしたといえよう。

歴史に「もし」は禁句である。勝負事だからなおさらである。だがもし江夏が巨人に入っていれば、球界はどうなっていただろう。偉大なONと並んで「ONE」を形成し、黄金時代はさらに続いていたかもしれない。

そして、江夏を逃した阪神はどうだろう。通算100勝を挙げた外国人投手バッキーが、68年オフに放出されず、阪神に残留していた可能性が高い。江夏は2年目のこの年25勝を挙げ、最多勝を獲得。若き左腕の急成長を見極めた阪神フロントは、バッキー抜きでも戦えると判断し、トレードが決まったのだ。バッキーは移籍先の近鉄では1勝も挙げられず引退したため、既に南海スタンカが達成していた100勝を上回ることができなかった。阪神に残っていれば、あるいは101勝目を挙げ、この時点での単独1位となっていたかもしれない。

今回のドラフトは10月26日である。次代を担う若者たちが抽選に一喜一憂する、球界屈指のドラマがやってくる。半世紀以上たったときに「あのとき、あのくじ引き結果が違っていれば」と振り返って楽しめる名選手は、果たして何人生まれるだろうか。江夏の運命が決まった1966年に生まれた54歳の私は、今年も楽しみに待っている。【記録室 高野勲】