生々しい光景を、忘れもしない。昨年2月上旬。オリックス山崎颯一郎投手(22)は、カウンター席で、そっと箸を置いた。宮崎名産の地鶏に目をやり、言葉を続ける。

「今まで、考えたこともなかったですよ。骨がどう、とか。筋肉がどう、とか。神経がどう、とか…」

いつも明るく無邪気な山崎颯が、ポツリと言った。「実際、見てみないと、わかんないですよね…」。ふんわり着ていた黒色パーカーの袖をまくった。力こぶを作るように腕を曲げ、右肘の内側を見せる。「もう、痛くないんですよ。この傷が、勲章になればいいんですけどね…」。そっと添えた左手の親指で、ぷっくりと膨らんだ手術痕をなでる。満足に野球ができない状態で迎えた、昨年2月の宮崎春季キャンプ。右肘が上がらず、思うようにキャッチボールができない。悲痛な叫びだった。

悪夢は、19年5月8日ウエスタン・リーグのソフトバンク戦(舞洲)。先発登板し、4回2死を取った、次のタイミングだった。

「投げた瞬間に『ブチッ』って右肘が鳴ったんです。何が起こったか、全然わからなかった。突然、力が全く入らなくて…」。その場でうずくまった。1度は投球練習を試みるも「ボールが握れなかったんです…」と冷や汗が止まらなかった記憶がある。

首脳陣やトレーナーと相談し、その年の8月には右肘内側側副靱帯(じんたい)再建のためトミー・ジョン手術を受けた。待っていたのは入院、リハビリ生活…。「気持ちが折れることはなかったです。同期(入団)の黒木さんの存在も強かった。いろいろ相談できるので。1人でやるより仲間がいたほうが心強かった」。同時期に同箇所を手術した黒木も、リハビリに励んでいた。

19年オフには支配下選手登録を外れ、育成契約に。背番号は3桁の135になったが「前向きに。同期の(山本)由伸、バラ(榊原)が投げていたので負けずに、という気があった」と自身初の1軍マウンドを目指した。

決して下は向かない。大阪・舞洲の球団施設で顔を合わせると、いつも明るく振る舞った。「正直、キツイっすよ…。でも、頑張ります!」。短い会話からも、あふれる思いが伝わってきた。

昨年10月1日に実戦復帰し、150キロも計測した。順調に回復を見せ、昨オフに背番号は「63」に戻った。

甘いフェースが注目される高卒5年目右腕は、苦難を越えて、1軍マウンドに立った。5月1日のソフトバンク戦(京セラドーム大阪)でプロ初登板。7回に3番手で救援登板し、1回1安打無失点。「暑くないのに、汗がすごく出た。緊張してるなと自分で思いながら。そっちの方が楽で。緊張しないようにと考えると、どんどん緊張してしまうので、割り切っていけました」と独特の緊張感を楽しさに変えた。ブルペンで投球準備を伝えられた際は「よっしゃ、来た! やっと、出番きた! 」と胸を弾ませたという。

先輩も後押しした。「ピッチャー山崎颯一郎」がコールされ、一塁側ベンチからマウンドへ。すると、敦賀気比で5学年上の先輩にあたる左翼手の吉田正が、小走りで追いかけ、グラブでお尻をポンとたたいたのだった。

「やっと投げられるという気持ちでマウンドに。自分のボールをビビらずに投げていこうと思いました」

最速は152キロを計測。中嶋監督は「まだ彼は始まったばかり。リハビリしてた期間もすごく練習していたのも見ていた。これが、彼の始まり」と190センチの長身右腕に期待を寄せた。

山崎颯は16年ドラフト6位。同期入団で同学年の山本はドラフト4位から、すでにエース級の活躍だ。入団から苦楽をともにする山本は「颯一郎もリハビリで、苦しい時期を越えている選手なのでうれしい。同期入団で年も一緒。一緒に活躍できたらなと思います」。山崎颯は「まだ、僕は全然いい投手ではない。ただ、しっかり(リハビリを)やっていけば、マウンドに戻れることを証明できた」。0-13と大敗した試合にも、深いドラマはある。【オリックス担当 真柴健】